1月14日の日曜日は会津坂下町に行って、再び大俵引きを見に行きました。
13日の会津美里町(旧会津高田町)の大俵引きに続いて2日連続
これは高田の大俵引きは毎年1月第2土曜日、
板下初市大俵引きは毎年1月14日となっているために偶々です。
(高田大俵引きと板下初市大俵引きが同じ日ってのもあったそう。)
しっかし、会津若松市の「衛星都市」とも言える会津美里町と会津坂下町で
「大俵引き」という祭事が残ってるのは不思議な気がします。
かつては会津若松の十日市でも「大俵引き」やってた時期もあったそうだからね。)
郡山の弊アパートを朝7時に出立して再び会津地方へ
磐梯山も山頂は雲の中の様子
JR只見線の会津坂下駅。
古い改札口ですねぇ
ICカードリーダーがないと戸惑ってしまいます。
駅前にC58 215が静態保存。
缶が細い(軸重軽い)ローカル線用のテンダー式蒸気機関車ですね。
かなり傷んでいました
ここは旧国道49号線、近世越後街道ですね。
如何にもな旧街道で素敵。
西向きに進みます。
近世主要街道には宿場町前後において直角に曲がるクランクが多く、
そこには寺社が創建されているケースが多々ですが、
会津坂下の西側クランクには諏訪神社がありました。
立派な拝殿でした
合掌(-人-)
朝も9時を過ぎ、旧国道(越後街道)は通行止めとなり屋台が設置され始めました
坂下の街の中心地(町役場前)には市神様が設置
大俵引きは市神様に対する奉伺という意味合いのようです。
確かに現在の会津坂下町役場は小さく古びている(有り体に言えば・・・ボロい)感じ。
こういった場合・・・郊外の広大な土地に行政機関を移動するのがセオリーですが・・・
まぁ「旧町内有志」の方々にとっては納得イケんか
旧街道沿いに古い神社仏閣が並んでいるのもセオリー
ここは法界寺という曹洞宗の寺院。
戊辰戦争で会津軍の「娘子隊」を引きいた中野竹子の墓石があります。
柳橋の戦いで戦死した竹子の首級を敵方に奪われんと、
妹の中野優子等は首を切断しこの法界寺に葬ったとのこと・・・
ヒェ~
首って重たいらしいし・・・最前線で首を切り取って持ち帰るのも大変です。
そう言えば・・・
長刀等で武装した娘子隊は近代兵器で武装した政府軍には無力であるとし
新島(山川)八重は加わらなかったとのことで。
市街地からちょっと離れた場所にある台ノ下住宅。
街並みの区画から逸脱した古い平屋の集合住宅が残っているようで訪れてみました。
如何にもな昔の集合住宅
よくぞ残っていると感じます。
磐城炭田の炭鉱住宅でこのようなタイプが残ってますが、
ココには鉱山炭鉱はないし。
多くの住居はもう無人のようです。
何で残っているのか不思議な気がします。
何らかのいわくのある場所に感じられるなぁ
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再び町役場まで戻ってきました
町役場前には小学生用の子俵引き(1t)と大俵引き(5t)の俵が設置。
祭りの準備万端
12時50分からの俵太鼓で祭事開始
小俵引きを行う小学生諸君が入場。
寒そうです
小俵引き開始
写真撮影タイム
親御さんがバシバシ写真とりまくります
小学生高学年は女子の方が体格が良いですね
第2次性徴は女性の方が早いですけんのぉ
では本ちゃんの大俵引きの祭事開始
先ずは神主さんの詔から
長かったなぁ
東西に別れた引き手入場。
男性の方は下帯一丁
神主さんのお祓いを授りまして
会津坂下町の町長さんの一言
長いなぁ
白組が勝てば豊作、紅組が勝てば米の値が上がる
ワッショイワッショイ
今年は紅組が勝利
米の値段が上がるとのこと
米価が上げれば農家の方々は豊かになります。
良かったなぁ
鏡割り、餅搗き、振る舞い餅はどちらかと言うと形式的でんな
福豆俵まきになると皆必死
このような「ばらまく」事象になると、長身で体格の良い男性の若衆が圧倒的有利。
体の弱い高齢者や女性や子供は不利です。
ちょっとなぁ・・・
福豆俵まきを見届け、15時過ぎに会津坂下町を後にしました
帰り際の会津磐梯山
綺麗だなぁ
今回、Getした地酒と起き上がり小法師。
そもそも坂下初市は風車や起き上がり小法師と言った「縁起物」を購入する機会であり
「大俵引き」は余興なのかもしれませんな。