白河口の戦い古戦場を散策する・・・の巻 | 乾パンのブログ

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白河関や白坂宿を散策をした後、白河市街に戻ると白河口の戦いの古戦場の散策に寄り道しました。

白河口の戦いについてはwikiとかを参照してください。

 

1968年(慶応四年)から始まる戊辰戦争における、

新政府軍と奥羽越列藩同盟との間の白河小峰城を巡る初めての本格的な陸戦。

 

装備に優れてはいるが兵数が圧倒的に劣る新政府軍が白河城を落城させ大勝します。

奥羽越列藩同盟は大敗しこれで戊辰戦争の雌雄が決してしまった戦い。

 

ここでもうちょっと列藩同盟が粘れれば(時間稼ぎ出来れば)・・・

その後の戊辰戦争の動向は大きく違っていたかも。

 

日本海側のいわゆる北越戦線では河井継之助や鬼玄蕃こと酒井了恒等の活躍もあり

新政府軍と互角以上の善戦だったのですが、主戦線たる白河戦線では不甲斐ない戦いだったなぁハートブレイク

 

これは同じ列藩同盟でも長岡藩や庄内藩が武力の近代化(西洋化)に早くから務めた結果であり、

仙台藩や会津藩等の大藩が後手を踏んだのが、戦争のイニシアティブを新政府軍側に握られた

大きな要因でしょうね。

 

と・・・話の前段はこのくらいにしといて・・・

下矢印の地図は埼玉大学教育学部人文地理学研究室谷先生のサイト「今昔マップ on the web」を

参照させて頂きました。

 

 

新政府軍が白河城を奪取する慶応四年五月一日(旧暦)の戦況図。

この時点で新政府軍の兵力は700人、奥羽越列藩同盟軍は2,500人。

 

この頃はまだ宇都宮戦争の真っ最中だし、江戸では上野の山を拠点とした彰義隊が暴れ回っていた。

新政府軍も白河戦線に割ける兵力はこれでけで、いくら火力に秀でていたとはいえ、

これで攻城戦をどうに戦うのかはてなマーク

 

列藩同盟は白河城の南側にある稲荷山に陣地を築いてそこを主戦線に置く。

奥州街道が大きく湾曲した場所の小高い丘に防衛ラインを敷くのは常道ですね。

 

一方の新政府軍は少ない兵力を中央軍、左翼迂回軍、右翼迂回軍に三分割。

中央軍に新式大砲を配置して稲荷山陣地に猛攻。

苦戦する列藩同盟軍は白河城から予備兵力を逐次投入。

 

んで、手薄となった白河城を新政府軍の左右両迂回軍が奇襲し奪取。

白河城を失った稲荷山の列藩同盟軍は戦線を放棄して撤退・・・となりました。

 

こうみても新政府軍の戦術は見事としか言いようがなく、

指揮官伊地知正治は相当の名将だったんでしょうね。

 

 

旧奥州街道から見た稲荷山。

新政府軍の兵士達もこの風景を見たに違いない。

 

 

周囲は水田が広がっていますが、この風景は幕末から変らない・・・はず。

水田は大規模な兵力移動が困難であり、19世紀日本で戦列歩兵が発達しなかった要因でしょうか!?

自然に街道沿いが戦いの場所と成り、その代表格が西南戦争の田原坂の戦いなんでしょうよ。

 

 

街道沿いにこの戦いで戦死した長州藩士、大垣藩士の石碑あり。

 

 

その脇、稲荷山の麓に松平容保揮毫の「戦死墓」がありました。

 

 

「戊辰の役古戦場」の表示板。

 

 

現在地の昔の写真。

この写真の撮影場所は・・・

 

 

ココだねラブラブ

昔から道路の形状は同じです。

 

 

田辺軍次君之墓。

田辺軍次はこの地で戦死した会津藩部隊副総督横山主税の従者。

会津藩が戊辰戦争に敗北し斗南藩に転封した時は同行するが、

明治三年に斗南を離れて白坂宿で村の重役大平八郎を斬殺、自らもその場で割腹自殺ドクロ

 

大平は白河口の戦いで新政府軍を道案内した功績で村の重役になったとのことで、

その逆恨みでの凶行とのこと。

 

このように石碑が建立されているということは旧会津藩的には英雄なのかなはてなマーク

白河の人々的には、奥羽越列藩同盟軍も新政府軍も共に「ヨソ者」であり、

どちらに味方しようと好き勝手だと現代の倫理観で生きる私は思ってしまうのですが・・・

 

 

旧奥羽街道が一望出来る要所でこの地を防御拠点にするのは真っ当です。

(前述したように街道以外は水田で軍隊の移動は困難ですからね。)

 

なお、列藩同盟軍側には新選組も含まれていてこの地で戦ったとのこと。

指揮官は山口二郎(斎藤一)。

 

斎藤は幕末・維新期に、山口一→斎藤一→山口二郎→一瀬傳八→藤田五郎と次々と改名しますが、

見ての通り、いずれも名前に数字が含まれているのが特徴。

どういう拘りなんだろうかクラッカー

 

 

稲荷山公園の中腹には戊辰之碑と白河口の戦いで戦死した

両軍兵士の名前が銅板で刻まれていました。

名前を見るとよくよく面白いんですが・・・

 

 

会津藩士戦死者に「○藤」姓が非常に多いこと。

仙台藩士にも多い。

やっぱり東北地方には「○藤」さんが多いんですねぇ・・・

 

 

一方の新政府軍側(西日本)戦死者に○藤さんはほとんど居りません。

氏名って偏りがあるんだねぇってことが分ります。

なお大垣藩のところには白坂宿で戦死した酒井元之丞の名前もありました(-人-)

 

まぁ実際はこの銅板に刻まれていない、戦渦に巻き込まれて亡くなった地元の方々も多かった

ンだろうけどねぇ

 

 

奥州街道から稲荷山を見上げると・・・かなりの難攻不落の要害に思えるんだけどなぁ

なんでこんなに兵数では圧倒的な列藩同盟軍が大敗したのか・・・不思議に思えます。

いくら火力に差があったとしても、塹壕を掘るとかやり方でいろいろできるじゃんあせる

 

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帰りに白河駅前に車を駐めると白河市街も少し散策走る人

 

 

旧奥州街道をはじめ、市街のあっちこちで鍵型(食違)が見受けられます。

 

 

如何にも城下町だよねぇ・・・

無論ながら交通の障害なので、バイパスの建設が必須ですがねニコニコ

 

 

白河小峰城は昨年見たので今回は割愛汗

 

 

白河ハリストス正教会聖堂が良い味出してました。

木造の洋館って良いねぇドキドキ

 

 

現在の建物は大正年間建立ですか。

いつかは聖堂の中は行ってみたいなぁラブラブ

でも神社仏閣に比べてキリスト教はちょっとハードル高くてね。

 

 

十字架にヘンテコな出っ張りが付いているのが正教会の特徴ですかはてなマーク

何か意味あるんだろうな。

 

 

JR白河駅も大正年間に建てられた駅舎が残っています。

これも趣ありますチョキ