昨日ですが、自転車で大田区から横浜まで行く気になったのは、
旧東海道を散策したかったからです。
品川~鈴ヶ森間と並び、川崎~生麦間も比較的旧東海道が残っている箇所です。
ここが川崎側の旧東海道の入口。
右手が多摩川を越える六郷の渡し跡です。
如何にも旧街道っぽい道。
どうも道幅は江戸時代とあまり変わらないようです。
街道の途中にあったJR鶴見線の国道駅。
固有名詞のない駅名です。
ガード下は歴史を感じさせる作りです。
ホントはこの中も散策したかったのですが、時間がないので次の機会です。
で、ここが今回の散策の目的地である、生麦事件の現場です。
今を去ることちょうど150年前の1862年(文久2年)、
ここで薩摩藩島津久光の行列と乗馬したイギリス人リチャードソンら4人が出くわせ、
リチャードソンは無礼打ちで殺害されます
私が習った教科書では「イギリス人が大名行列を横切った」とありましたが、
実際は東海道を下る久光等一行と横浜居留区から乗馬を楽しむ為に東海道を上るイギリス人一行が、
ここで鉢合わせしたようです。
なお久光は薩摩藩の実質的最高権力者ではありましたが、形式上の藩主は甥に当たる忠義であるため
正確には「大名行列」とも言い難いのですが・・・
この地は幕末期には既に街道の両側に家屋が建ち並び、乗馬したイギリス人一行に「逃げ場」がなかった為、
この「悲劇」が生じてしまったようです。
生麦事件現場案内から600mほど横浜側にあるのが「生麦事件碑」です。
首都高の建設工事の為、少しばかり川崎側に臨時移動と書かれています。
ここで内臓が流れ出るほどの怪我を負いながら、
辛うじて難を逃れたリチャードソンが落馬絶命したとのこと。
現在は道路工事中で実もフタもないのですが、
生麦事件となれば登場する有名な古写真とほぼ同一地点のようです。
分かりづらいのですが共に右手側に段丘が認められます。
ここで鉢合わせだったらイギリス人は畑側に逃れられたわけですが、
ホンの短い時間のズレが運命を決してしまったわけですね。
当時、横浜に居留する諸外国人は、娯楽の為に東海道を乗馬で往復することが多かったようです。
当然ながら東海道を往来する西国大名の行列とトラブルを発生させることはもはや時間の問題であり
生麦事件はある意味、必然であったように思います。
ただし、雄藩中の雄藩であり、尊皇攘夷、公武合体の急先鋒であった薩摩藩と事を起こしたのは
歴史の運命ですね。
その後、薩摩藩の歴史は、生麦事件→薩英戦争→薩英同盟→薩長同盟→倒幕→戊辰戦争へと
激動の時代を迎えます。
歴史にタラレバは禁物ですが、生麦事件が起きなければその後の歴史は違う展開となったかもしれません。
P.S.
生麦事件の実際は乗馬したイギリス人一行が薩摩藩行列と鉢合わせし割り込んだことから生じたようですが、
なぜ教科書等には「大名行列を横切った」と記載されるようになったか
よくTVなどでは「下にぃ~、下に」と進む大名行列に「ははぁ~」と土下座・平伏する庶民という模様を見ますが、
そのような作法が必要なのは、将軍家および御三家の大名行列のみであり、
その他の大名の場合は左右に分かれて道を譲ればOKだったようです。
一方、大名行列の前を横切ることは「切る」につながることから、
無礼打ちされても仕方がない不作法だったとのこと。
よって、大名行列に鉢合わせしたのではなく、横切ったのだから無礼打ちは当然だ、
という当時の関係者の「言い訳」だったんじゃないかな。
ところが当時の大名行列の作法が直に忘れさられて、「横切った」のみが後世に残った・・・