写真は筑波山遠望。
昔ムカシ、農耕民族の最大行事であった「田植え」の後、人々はどのような思いでこの筑波山を眺めたのであろうか。
「日本書紀」によれば、あまりの武勇ゆえ父景行天皇に疎まれた日本武尊(やまとたけるのみこと)は「東国出兵」に追いやられた帰途、 常陸の国新治・筑波を通ったらしいですよ。
「新治筑波を過ぎて幾夜か寝つる(日本書紀)」
「新治や筑波の郡を過ぎて、もうどのくらい経つのかなあ」
爺が勝手に推測する新治・筑波の道は、この写真そのままであります。
海抜871㍍(写真左側の男体山頂)、877㍍(写真右側女体山頂)とどちらも比較的穏やかな山です。
山頂は男体、女体の2峰ですが、女体山の方が6㍍高いところがまた面白い。
筑波山は古来「歌垣」の山、神みそなわす所としてとして信仰されてきました。
「ユイの組(=結い、親類縁者)」総出で、五月雨の下、田植えの過酷な農作業は行われたものでしょう。
ようやく田植えが終われば、神への感謝と心身解放の喜びの踊りと歌の大宴会。
この日に限って若い娘は、若い男に思いのたけを告白しても良いとされた。
「バレンタインデー」の日本版ですな。
万葉集「東歌」の部立てには、娘の男への燃える思いの歌があります。
新治で発掘された「武者塚古墳」には、成人男子の角髪(=みずら、耳部でまとめるヘヤースタイル)が残っていました。
田植えの後の宴会で、歌をうたい、踊り明かした人だったのかもしれません。
駄句5句。
山麓に整列早苗踊りなし
早苗田に乙女は無くて老爺と婆
結(ゆい)名残消えて機械の田植えかな
筑波嶺は昔のままの男女あり
山麓に武者の古墳の夏陽受く
腰折れ1首。
連休の一日機械唸りあげ水田(みずた))変へる人逞しき