写真は梅鉢草と捩子花(ねじばな)。
今回の志賀高原「飲酒行」は雨に降られ通しでしたが、ススキの穂が雨に濡れながら風に靡く風情など、とても心に残りました。
「ススキはエライ!」
などと愚にもつかない感想を二日酔いの脳裏の片隅に焼き付けたりも致しました。
なにゆえススキがエライのか?
だってね、荒野の全面を占めつつ、公平に一本残らず雨に打たれ、風に靡くのですよ。
「当たり前だろ」
と言われればそれまでのことですが、
「キミは薪を拾え、我は水を汲まむ」
などと、我に都合のいいことばかり口走ることなく、
「キミは雨に濡れたか?しからば我も濡れむ」
この一蓮托生の発想が、いかにもススキらしく、愚老には感動的でもありました。
なあんてね。
かような「感動」は所詮酔っ払いの繰り言なのであります。
個性もなく、自己の主張もなく、ただ右顧左眄するばかりで、寄らば大樹の陰の生き方はどこかで見たぞ。
秋の風を受け、ただへらへら笑うススキは、ボケ爺の世渡りと同じではないか。
よく見れば、臍曲がりのススキもあって、地にへたり込んでいる。
先ほどのススキを眺めた感動はすっかり忘れ、我が人生を反省、三省致すのです。
かような妄想、繰り言が実はまことに楽しいのです。
宿に引き込まれた電線には、岩燕が止まり、しきりに囀っていました。
「燕帰る」
さようさよう、岩燕の群れは間もなく、親も子も南への遙かな旅に飛び立つのですね。
電線の親燕は子燕に「長い旅路の心構え」を説いているように見えました。
相宿の別働隊が「白馬村散策」から戻ってまいりました。
白馬村の辻辻にあった「道祖神」や「庚申塚」は昨年の大地震で如何なることになっているやら、心配であったのですが、観音原の80体を越える観世音像も、土地の人の手で回復されたとのこと、安堵致した次第です。
駄句7句と愚歌2首。
何事や竜胆虎杖(りんどういたどり)並び居り
竜胆と虎杖とは厳しき名秋の一日思ひ巡らす
秋の雨リフト無聊に並ぶかな
山頂降り来る霧の秋告げぬ
秋の雨山の新聞遅らせる
岩燕皆飛び去りて驟雨かな
岩燕帰る日間近飛び教ゆ
親子なり線に居並ぶ岩燕低き鳴き音に旅路教え居る
地震(ない)震るも馬頭や普賢は立ちおはす白馬の郷の観音の原