たわごとです | かもめのヨハナ☆祈りの花束ーカトリック

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日々の祈り、信仰生活(介護に翻弄される日常生活)、妄想、自然災害予知など、自己満足のブログです☆ーカトリックー

今日はおかしなことを書きますね。

自分でも説明がつかないので、
感じたことをそのまま書こうと思います。


祈っている時、世代を越えることがあります。現在、過去、未来、すべての時代に存在できます。

その時代の誰かになって存在するのではなくて、例えるなら、空気になってその時代に満ちています。
空気を構成する原子になって存在している感じです。

でも、空気というよりは、世界に満ちている霊の一部になって溶けていると言う方が正しいのかもしれません。

私には地球も宇宙も見えざる霊に満たされた空間に存在しているように思えるのです。

その霊の中で会話にならない魂の言葉で神様と話をしています。


また、普段から私の体と心はここにありますが、多分魂はここには無い感じがしています。

地上と天の間で宙吊りになっているような感じです。
物を見たり考えたりを体の外でしていることがあるからです。
空から地上を見ていたり、宇宙から見ていたりもします。


また、ある時、世界がまるごと私の胸の中に入っていました。

そして、世界が悲しむと、一緒に悲しくなり、世界が苦しむと一緒に苦しくなり、世界が喜びに満ちると私も一緒に喜ぶのでした。


世界がまるで自分の魂の一部のようでした。


世界の鼓動が私の心臓の鼓動でした。


でも残念ながら、世界の鼓動は不整脈のようにバラバラで、調和がなく、健康な心臓のように快いリズムを打ってはくれませんでした。


それで私は、健康なリズムを取り戻すために、全ての世代の人々の心の中に入って、心臓の鼓動を調和させるために、その人に不足している物を補いたいと考えていました。


心臓の鼓動は一人一人が達成するはずの霊性から発していて、ある人は快く、ある人は微弱で、ある人は止まりかけていたり、それらがまとまって、てんてんバラバラのリズムを生み出していました。


そしてそのリズムが物質世界にも反映されていて、地上の世界は一致せずバラバラの鼓動を生み出すのでした。



話しはまとまりませんが、
世界と私は切り離せないひとつの存在でした。


私は世界を観察するのではなくて、変化していく世界の全てに霊的に参加しているのでした。 また参加しようと試みていました。


理由は神様が世界を愛されているから。ただ愛のために世界を愛で満たし、ただ愛のために、世界の中から神様に愛を返すためです。


その愛が神様と世界を繋ぐ調停の役割を果たすのでした。



それは主に、霊的世界で行われていて、世界に住む善意の霊魂たちが行っている仕事でした。



善意の霊魂たちは、自分に対しては全く無関心で、神様の愛を望んでいました。

彼らは自分のためには何も持たず、無一文でしたが、幸せでした。

魂においても全くの無一文でした。


彼らには自分独自の聖性は存在せず、必要なものは全部、神である創造主からいただいていました。


彼らは無でしたけど、世界中の宝物を全部を持った人々よりも裕福でした。


なぜなら永遠である創造主の所有する尽きることのない宝を自分の物として使う権利を創造主から許されているからです。


善意の人々は驚くほど普通に普通の生活をしながら、霊的に創造主の賜物を使い、霊的に神様に愛のお返しするのでした。

神様から出たものだけが神様の内に帰る。愛の循環です。


誰の目にも留まらずに。
多分自分自身でもそれに気がつかずに、彼れはそれを行います。



それはただ天の聖なる霊魂達だけが見ることが出来る不思議だと思います。


彼らが望んでいたのは、ただ神様の愛の内に生きることです。神様の愛を自身に実現させることです。


多分それが信仰と言うもののではないかと私は思いました。
神様を見つめて生ければ、必要なものは後からついくると思います。



そして、私もいつかそんな霊魂の一人になりたいと思います。


でも、思うことだけでは実現出来ないので、神様に向かって強く望みたいと思います。


そのような霊魂にならせてくださいと。


長い文を読んでくれてありがとうございます。


皆さんに神様の祝福がありますように.+:。 ヾ(◎´∀`◎)ノ 。:+.