今の街に引っ越してきたとき、これを機会にテレビを大型画面に替えようという話になった。

仕事で忙しいボクは、母に、次の日曜日にでも、買いに行こうかと話していた。

仕事から帰ってくると、なんと、もう茶の間に大型画面のテレビが据えられていた。

えっ?! どしたの? どこで買ったの?

近所の「電気屋さん」に頼んで、持ってきてもらった。とぉ~ても親切で、わざわざ持ってきてくれて、茶の間に運んでくれて、ちゃんと映るように調整してくれた。と、いたく満足げな語り口調だった。

デン〇堂とかで買えば、もっと安いのにぃ~。

この言葉に、母は噛みついてきた。

地元の電気屋さんは、大事にしないとダメだ。ツブれてなくなってしまったら、どうするんだ。電球一つでも、夜中に欲しくなったら、電話一つでイヤな顔しないで売ってくれる。

その言葉に、「その道理は分かるけど、今どき……」

これが当時の私の反応だった。

 

でも、このコロナ災禍で考えた。

こういう災難の時、実は、確実にボクらの支えになっているのは、身近な店だったりしてないか?

量販店にわざわざ出向いて行って、コロナ感染のリスクをあげる必要もない。

地域の生活機能が自給自足的に成り立っていれば、「地域」そのものが、感染の伝搬のリスクを下げてくれる「壁」の役割を果たす。

地域経済が、当たり前の実体経済の原動力になっていれば、これ程まで経済が疲弊しなくてすんだかもしれない。

もともと、生活するに足る社会資本と経済基盤が整備されていれば、少なくとも「お金」を苦に首をくくるような人を出さずにすむんじゃないのか。

そういう経済システムを今まで目指してこなかっただけだな。

 

「濡れ手で粟」を憚らない経済のしくみ。現代の「金回りの原理」

その原理が、今の日本経済の原動力?

そもそも「お金」とは何か?

なかなか理解できない。理解できないようにさせられてきたのかも知れない。

 

庶民は、そのおこぼれを頂いて睦まじく暮らせれば御の字だろう、と?

「働かなくても食っていけるくらいの資産」とは無縁のボク。

そんな「階級」の「庶民」には、どれだけ考えても、釈然としない。

 

私たちが幸せを感じて生きるための経済原理ってどこにあるんだろう。

それを考え始める、今がチャンスかも知れない。

アスペルガーの人たちの声……
「こう行動すべきだという行動規範がない。そのことをみんなが理解してくれない。自分にとって意味あることをしたいだけ。」
この言葉の重みをちゃんと受け止めたい。こういうことをちゃんと受け止められない側の方が、実は、本来の生き物としての姿から遠ざかっているのかもしれない。
「時にみんなと同じことが出来たとしても、だから障がいがないわけじゃない。」
「それだけを見て、怠けているとか、ズルとか、言われても、どうしたらいいかわからない。」
「紙飛行機を作るのが上手いからと言って、紙細工が上手いはずだとか、ものづくりに向いているとか、勝手に枠をはめないで欲しい。紙飛行機が作りたいから作るのであって、それが今の自分にとって、意味あることなんだ。」
このことが、なかなか理解されないんだよね。
情緒障害で苦しんでいる子どもに対して、「なんで出来ないんだろうねぇ〜、中学生なら出来て当たり前なのにぃ〜」ってぼやいている教師を見て、愕然とする。
ここがボクらの出発点なんだと、自分に言い聞かせて、仕事をする毎日なんです。

点数学力に傾倒することが批判されながらも、根強く教育現場に反映されているのは何故なのか?
教育現場にどのような論理が持ち込まれている結果なのか?よく考えてみたほうがいい。

子どもたちのためと言い、日々、学力向上に励む教師。その裏で、本当の学びから遠ざかっていく子どもたち。その矛盾に気付こうとしない教師、おとな。

学習の意欲を喚起する手段が、点数による優越感競争になっていなければいいのだが。
自分の授業はそんなことはないと否定できる教師に問いたい。
「今、現場から、テストによる評価や通信票をなくしても、あなたの授業はこれまで通り成立しますか?」
これに、どれだけの教師が胸を張って応えられるのだろうか。
テストによって守られているのは、「子どもたちの将来」なのか?
実は、守られているのは「教師自身」なのではないか?

そんな風に感じるのは自分だけなのかなぁ〜…