本来の訪問時系列は
11月9日(水)
第32軍司令部壕跡、前田高地、嘉数高台、泊城公園→チビチリガマ→名護(宿泊)
11月10日(木)
特記事項無し/北部グルッと
11月11日(金)
名護→義列空挺隊(掩体壕)→読谷補助飛行場跡→シムクガマ・・・南城市
という流れなのですが、
チビチリガマとシムクガマの関連性が高いので、
読谷村で1つのブログに致します。
そこに、義列空挺隊(掩体壕)も加えます。
2022年11月9日(水)
この順で巡って、美浜アメリカンビレッジはとんでもねぇ~観光客だったので、
法定速度でスルーして・・・毎度恒例のお昼を食べ損なて…
嘉手納基地脇を通り北上し、比謝川を渡り、泊城公園へ
この公園には米国上陸の地碑があります。
写真右奥の男性が立っている所の階段を上ります。
だっけどまぁ、嘉手納基地の近い公園/ビーチ/飲食店があるだけに、
Yナンバーの車
や米国軍人の皆さんに囲まれると、
ひょえぇ~~~~~~~~~~~~~~~っでありますなぁ~。
→実際に左右上下(上下ではないか…前か)3方をYナンバーに囲まれ、
戻って来た、やかましすぎる米兵に取り囲まれた人![]()
その階段ね。
で、階段を上がってから、道が分かれており、
どこに進むんだか若干遭難しますが、両サイドにお墓のある広めの道を
上方に上がって行きます。
すると、また、案内板が
ココを入って行きますと、
海というか、比謝川が見える所に出ます。
そこには、3つの碑が
比謝川河口部
予め記載をしますが、”読谷村”の表現は、他の市町村とは異なりますから。
勿為沖縄戦場
1945年4月1日米軍は読谷村の西海岸から沖縄本島へ上陸した。
沖縄戦は鉄の暴風といわれ、一木一草焼き尽くし、
緑豊かな故郷は、がれきと化し、住民を巻き込んだ悲惨な地上戦であった。
かつて経験したことのないこの戦争は島の文化と人々の平和な暮らしと
多くの尊い人命を奪った。この美しい海岸が二度と再び如何なる軍隊の上陸の地とも
ならないことを村民は祈念する。
太平洋戦争・沖縄戦終結50周年を期してこの碑を建立する。
1995年12月
沖縄県読谷村
米軍が上陸してきた場所。
後に登場する、チビチリガマ、シムクガマは海岸線からすぐの場所。
1945年4月1日午前8時半頃、
米軍が沖縄本島西海岸からの上陸作戦を開始しました。
この上陸作戦で、戦艦10隻、巡洋艦9隻、駆逐艦23隻、砲艇177隻が
援護射撃で砲弾44,825発、ロケット弾33,000発、
迫撃砲弾22,500発が撃ち込まれたということです。
比謝川(上流方向)
北上をし
チビチリガマへ
場所は分かりやすいんです。
数台停められる駐車場に、トイレもありますし
チビチリガマは集団自決があったガマです。
近くにシムクガマがありますが、
そちらは投降をし、1000名近くの住民が助かったガマです。
ほんの数百メートルしか離れていないのに・・・運命を分けた2つのガマ。
そんなこともあり、チビチリガマとシムクガマを1つのブログに収めました。
階段を下りますと・・・
階段を降りましたら、直ぐにガマがありました。
(写真左方向)
とんでもなく気が重いなぁ~![]()
このガマの上になかなかの交通量の道が走ってましてね。
ガマの上を車で通っていたのかぁ~![]()
右側にあるのが平和の像
その左下にあるガマの入口には多くの千羽鶴などが飾られ、
案内板がひとつ
その周りには十字架や仏像のようなのが点在
竪穴のような所もありますし
水が流れていたり
精神的にもガマの入口は撮れなかったぁ
チビチリガマは海岸線から1kmも無い場所で、
4月1日に米軍が上陸すると、あっという間にチビチリガマに到達。
チビチリガマへは世帯数31、
総人口194名のうち139名が入ったが、
自決者数は83名
その過半数が子どもであったそうな。
先程下ってきた階段方面
はい
2022年11月11日(金)
シムクガマ
シムクガマは場所が分かりずらくてねぇ。
シムクガマに寄った後に周囲を歩いてましたら、公園がありまして、
今後の目印になればと・・・
井之原公園が目印らしいのです。
どう見ても、石表(右)には井之原公園とは書かれていないような気がしますが
その公園を振り返ります
目印十字路より東方面
写真向こう側から来たのですが、
分かれ道に犬の散歩中の方がいて、道を尋ねました。
予想とは反する方向だったので、その方がいなかったら・・・
そしてもう一ヵ所で、分からなくなり、たまたま散歩に出られてきた方に聞きましたら、
この場所まで付いて来て下さいました。
かなりの年齢の方でしたが、「小学校の時、行ったくらいだからなぁ~」と。
地元の方でも、一生に1度くらいしか寄らないのかも。
この二人の方がいらっしゃらなかったら、到達できなかったかもしれませぬ。
ご縁に感謝。
シムクガマの入口は正面(舗装が終わった所を)右へ
小さく、案内板が出ています。
ココ、草刈りをしていないこともあるそうなのですが、
綺麗に草を刈っており、ハブさんの出現に対応できまする。
進みます
公園、ガマ、壕…どこもそうですが、
【ハブに注意】の看板は見掛けますねぇ。
注意と言われても…
ガマまでそこそこ距離がありまして、
ツルッツルの道を下って行きます。
沖縄南部の琉球石灰岩とはちょっと違う地質なのかしらん。
下りまする
1945年3月にはアメリカ軍の空襲は激しくなり、
艦砲射撃も始まるようになると、
約1,000人の波平地区の住民がこの洞窟に避難するようになったそうな。
そして4月1日アメリカ軍の沖縄本島上陸の日、
激しい砲爆撃の後、シムクガマに迫って来ました。
アメリカ兵が銃を構えて洞窟入口に向かってくると、洞窟内は大混乱に陥りました。
そこに、ハワイからの帰国者、
比嘉平治さん(当時72歳)と比嘉平三さん(当時63歳)が
アメリカ兵と対話したところ、手向かいしない限り殺さないので
ガマを出るように伝えられたため、村民たちに投降をするようにと説得しました。
その結果、シムクガマからは1000名あまりの村民が自決することなく脱出しましたん。
救命洞窟之碑
比嘉平治さんと比嘉平三さんの功績をたたえる石碑が
1995年から設置されているようです。
→シャッター速度が遅すぎてボケてしまいましたm(__)m
ガマの中へも行かれますが、
足元はツルンツルンですし、真っ暗ですので、
この辺りで戻ります。
ブレちゃって申し訳ない
2人の比嘉さんのおかげで、
1,000名あまりの村民の命が救われたガマ。
慰霊の旅、最終日に、なんだかホッとした瞬間。
人の命が奪われなかった場所というバイアスが掛かっているのか、
綺麗な景色に見えたり…
足元ツルッツル
戻りまする
同じく11月11日の話ですが、
こちらはシムクガマへ来る前。
義烈空挺隊/読谷飛行場掩体壕の場所が分からず、読谷村役場で聞くことに。
読谷村と言えば、日本一人口の多い村
元々、義烈空挺隊の碑は、読谷村役場道路向かいの
現在の読谷中学校の所に碑があったようです。
読谷中学校建設の折、碑は移転
だもんで、この場所が、
義烈空挺隊がやって来た場所ということになるようです。
それにしても、米軍からの返還後、
読谷村役場周辺は広大な原っぱのようになってますが、
今後どのように変化をしていくのでしょうね。
で、教わった通りに、掩体壕に向かって出発
掩体壕の案内表示が出てまいりまして…掩体壕はここから30m先で左に曲がる。
左に曲がるのが重要。
右には忠魂碑
フェンスで囲まれておりまする
なので、近寄れず
忠魂碑の文字も削られちゃったりもしてます。
忠魂碑は元々日清戦争や日露戦争をはじめとする戦争や事変に出征し戦死した、
地域出身の兵士の記念のために製作された記念碑で慰霊碑とは異なり、
GHQに国家主義や軍国主義的な意図を有するものと捉え取り壊されたんだけど、
ちょいちょい残っておりまする。
~~ 説明文 ~~
忠魂碑は読谷山国民学校(読谷山尋常高等小学校)敷地内に
1935年(昭和10)月頃に建立されました。
その後、1978年(昭和53)に同敷地に読谷村運動広場が建設されるに伴い、
現在の場所に移されました。
忠魂碑は当時、天皇と国家のために死んだ軍人や軍属の忠義の魂を顕彰するためのもので、国民全員に同じ忠誠をたたき込むことに利用され、
その結果、多くの若者が死地においやられたあげく、敗戦の憂き目にも遭いました。
現在、日ぶんは何者かによって削られ、説明版も持ち去られており、
わずかに揮毫者の陸軍大将鈴木壮六の名前が見えるだけです。
忠魂碑は日本の侵略戦争を美化する象徴として使われ、日本の歴史の負の遺産ですが、
戦時中の風潮を今に伝える証人であり、今後の戒めとして村では2009年(平成21)1月に
史跡に指定しました。
読谷村は他の市町村と違い、かなり毛色が異なり、
侵略戦争、美化など、他では目にしないような言葉が登場します。
ほら、「今後の戒めとして史跡に指定しました」って・・・こえぇ~、こえぇ~ぞ、読谷村。
あっ、星野リゾート 星のや沖縄があるのも読谷村でしたね、深い意味は全くありませんが。
この忠魂碑は義列空挺隊(掩体壕)とは関係ありませんで・・・
先程の忠魂碑より100m程で
到着しました、義列空挺隊(掩体壕)
周囲は工事現場
工事中の皆さんに、「なんか車が入って来たぞぉ~」的に
見られたのは言うまでもありません。
ここでも、レンタカーが汚れまして、オリックスレンタカーの皆様、ごめんなさい。
道路工事なのかしらん
義烈空挺隊玉砕之地
元は今の読谷中学校の所に碑があったそうなのですが、
中学校建設の為に、移転を要され、場所を探しているうちに、こちらになたっとか。
しかも、村からは直ぐに取り壊しが出来るように木製の碑にするよう要請があり、
木製の柱が立っているだけになったようです。
なので、摩文仁にある石で出来た慰霊塔などとは違いますね。
尚、賃借料を払っているそうです。
して、その掩体壕の中には3枚のパネル。
義烈空挺隊玉砕之地の碑を造って以降に、このパネルを設置したようです。
なんとなしに・・・の読谷村
冒頭の「日本にはかつて戦争を繰り返す間違った時代がありました。」
って明らかに他とは毛色が違うでしょ、星野リゾート/星のや沖縄のある読谷村。
(→なぜ、星野リゾートが巻き添えに![]()
)
もぅ、沖縄県の他の市町村とは、明らかに特色のある読谷村なのです。
沖縄戦で村の95%が米軍に接収され、
1972年の本土復帰時においても読谷村の73%が基地となっていた。
基地の返還におおくの年月と村民の労力が費やされたが、
現在も村面積の36%を米軍基地が占めるってのも影響しているのかもしれませんが。
元々、義烈空挺隊と掩体壕は似て非なるものというか、
関連性があるような無いような薄いようなもんですけどねぇ。
ちなみに、慰霊塔は摩文仁にありましたよねぇ。
あぁ、義烈空挺隊に関してサクっと。
敵飛行場に航空機で強行着陸して敵航空機と飛行場施設を破壊することを目的とした部隊。
連合軍に占領されていた沖縄の嘉手納飛行場と読谷飛行場に攻撃を行い、
一時的に飛行場の機能不全に陥ったが、
いつものアレで意味のないことになってしまった。
横から撮ってみる
周辺の街並み
ここ、なんの碑だったかなぁ
読谷村の毛色の強い碑が並んでおりまする。
不戦宣言の碑がある所かなぁ
確かに、南部戦跡の糸満市、南風原町、八重瀬町、南城市には
米軍基地はありませんが、読谷村を始め、沖縄中南部には米軍基地が点在し、
その南部戦線は”過去”になっているけど、中南部の市町村は”現在”の問題として、
沖縄本島各市町村毎の過去・現在・未来が大きく異なっているのでしょうね。
あちらは、返還の碑がある所かなぁ。
余り、読谷村には近寄りたくないなぁ~というのが
正直な気持ち。
読谷補助飛行場跡
慰霊の旅は最後、南城市に向かい、
糸数の壕/アブチラガマに入り、
首里城付近でお昼を食べて
東京に帰ります。
帰る所があるということ。
帰りの航空券があるというありがたさ。
77年前は爆弾を抱えた片道切符の航空機、艦艇が沖縄に向けて出発したんだし。































































