下鴨神社を後に致しまして

 

両側はマンションでございますねぇ。

なんやら、下鴨神社周辺にマンションを造るのだの

景観がどうのこうのと話題になりましたが、どうなりますやら・・・って建てるんでしたっけね。

 

下鴨神社方面を振り返ります。

鳥居型車止めはオサレなんだか、ちょいと微妙でございますなぁゲラゲラ

 

旧三井家下鴨別邸も公開中でございまして

 

3階望楼まで見学の方は、別途料金

ザッツ、商売×2アセアセ

 

3階望楼ね

 

3階望楼に人がおりますがな

 

鴨川を渡るざます。

写真の左から右に渡るんですよん。

川を渡るんですが、橋を渡るとは限りませぬパー

 

おぉ~っ、コレがTVでよく見る亀石おーっ!

冬は水量が少ないので、石がガッツリ出ているざます。

結婚式の前撮り・・・というより和装姿なので、

本日挙式なのかしら、右奥に写っておりますねぇ

 

ほらほら、右奥に新郎新婦が写っておりますがな。

これで、コスプレだったら面白いのですが、

ご両親も写っておりますし・・・

はい、渡りますよん

 

その前に、亀石だけに当学会のゼニガメを登場させましてっと

 

こんなポージングをさせてみたりウシシ

 

小雨降る中、ごめんあそばせ・・・

 

渡りきった所から振り返りますよん

水量が多い時はどんな感じになりますやら・・・

 

寺町通りをグイグイっと三条まで下りますよん。

まずは・・・

清浄華院(しょうじょうけいん)【初】

公式HPはコチラに・・・

http://www.jozan.jp/

 

 

千日回峰行の折、回峰行者の宿坊にもなるお寺でもございます。

えぇ、浄土宗さんの寺院を宿坊として使っちゃっておりますが、

元々は天台宗の寺院でございましたっと。

 

 

チロっとWIKIってみまして・・・

その歴史は古く、平安時代までさかのぼることができます。

貞観2年(860)、時の天皇である清和天皇の勅願により、

天台宗の慈覚大師円仁が"宮中(天皇の住まい)"に禁裏内道場として

建立したのが始まりです。

 

当時は(円教、天台のこと)・(密教)・(円頓戒)・(浄土教)の

四つの学問を学ぶ四宗兼学の道場であり、

かつまた国家泰平と天皇陛下のご健康を祈る鎮護国家の道場でもありました。

 

 

鳥居まであって、神仏習合って感じもしますなぁ。

この辺りで、オトイレットに行きたくなるのですが、見当たらず・・・ガーン

涼しい雨の日は膀胱が過敏になるのねぇ~

 

続きまして梨木神社【2回目】

公式HPはコチラに・・・

http://nashinoki.jp/

 

この時、膀胱が悲鳴を上げ始めまして、

オトイレットに行きたいのですが、梨木神社でも見掛けられず・・・

 

 

 

 

おっ、井戸だ、井戸

 

 

染井の井戸は京都検定にも出題されるほど有名ちゃんでございますねぇ。

 

京都の三名水「醒ヶ井(さめがい)・県井(あがたい)・染井(そめい)」のひとつである

染井の井戸が神社の境内の手水舎にあり、今も名水を拝受しております。
当社境内は、藤原良房の娘明子(あきらけいこ-清和天皇の御母染殿皇后)の里御所の趾で、この良房の屋敷を染殿と称し、宮中御用の染所の水として染井の水が用いられたという由緒があります。染井は甘くまろやかな味で、茶の湯にも適す水としても知られています。

 

 

梨木神社でございましたっと

 

梨木神社の道路向かいにあります廬山寺【初】

拝観料を払いまして、まずもって、厠に直行

 

ザザっとwikiってみましょうか

比叡山天台18世座主元三大師良源によって天慶年中(938年~947年)に

船岡山の南に創建されました。寛元3年(1245年)に法然の弟子である覚瑜が

船岡山の南麓に再興、中国の廬山にならって蓮社を結び道俗貴賎が群集し、

廬山天台講寺と号しました。


室町時代に応仁の乱で焼失した後、元亀3年(1571年)、

織田信長の比叡山焼き討ちは正親町天皇の女房奉書により免れましたが、

豊臣秀吉の寺町建設によって天正元年(1573年)に現在地に移転してまいりました。

度々の火事のため、現在の御仏殿(通称本堂)と御黒戸(通称尊牌殿)は

寛政6年(1794年)、光格天皇が仙洞御所の一部を移築し、

女院、閑院宮の御下賜でもって造営された。明治維新までは御黒戸四箇院と云って、

宮中の仏事を司る寺院が四ケ寺ありその中の一つでありました。

けれども、廃仏毀釈により宮中より天台宗にお預けになり、

明治天皇の勅命により当山のみが復興され現在は天台圓淨宗として今日に至っております。

 

 

紫式部が育ち、未婚時代を過ごしたのは堤第といわれた

藤原兼輔(紫式部の曽祖父であり、堤中納言といわれる)が建てた邸宅であり、

父・為時の邸宅においてでした。この邸宅で結婚生活を送り、

一人娘の賢子(かたこ)を育て、源氏物語を執筆したのです。

それは平安京の東に接した中河と呼ばれる地にあり、

現在の廬山寺の境内を中心とする処に営まれていました。


昭和40年11月、廬山寺の境内に紫式部の邸宅址を記念する顕彰碑がたてられるとともに

源氏庭が整備されました。

また、源氏物語の花散里の屋敷はこのあたりであったといわれています。
源氏庭は平安朝の庭園の「感」を表現したものであり、白砂と苔の庭です。

源氏物語に出てくる朝顔の花は今の桔梗のことであり、紫式部に因み、

紫の桔梗が6月末から9月初め頃まで静かに花開きます。

 

 

いつだかTVでやっておったが、

この点々としておる、苔の島のような所は

雲を表現しているとか・・・

 

この苔の島の所に桔梗の花が咲くんですよねぇ。

 

雨が降り続きますなぁ

 

梅が咲いておる

 

石に紫式部邸宅跡と書かれておる目

 

ペタしてね