さて、本日のメインイベントの四天王寺でございます。

庚申堂から歩くこと5分


道路が凍結していて、ツルンとなりそうな所もありましたが、到着。

 

どうも”寒行の集い”に行って以降、毎度のことながら、

精神衛生面がよろしくなく、昨日は2000頃には布団に入って、

睡眠障害なので、眼が覚めたり、汗をかいたり・・・

うんで、ブログもアップできず・・・コメントへのお返事も慢性的遅延中だったり・・・

そんなこんなでございますので、ご容赦の程お願いいたします。

 

 

ただ、この横断歩道がツルツルじゃったアセアセ

 

南大門ね。

推古元年創建。現在の南大門は昭和60年11月に再建。
南大門の内側には熊野(くまの)権現(ごんげん)礼拝(らいはい)石(せき)が

玉垣内に鎮座している。
往古より熊野詣にはまずこの場所にて熊野を遥拝し、

道中の安全を祈り、熊野街道を南へと向かったと言われている。
南大門正面より真南に向かう道は庚申街道といわれ、

2~3分の所に庚申信仰発祥地、四天王寺庚申堂があり、
庚申の日とその前日には多くの参詣者で賑わう。

 

 

えぇ~っと、解説は得意のコピペ作戦でチョキウシシチョキ

聖徳太子ご創建の当初(593)は、日本にはまだ宗派という概念がなく、

四天王寺も●●宗というものが付いていませんでした。

奈良時代に、南都六宗と言われる聖徳太子仏教(法相宗・倶舎宗・三論宗・成実宗・華厳宗・律宗)が誕生した時には、四天王寺は六つのいずれにも属さずに、六つの宗派の別格本山として扱われていました。

 

平安時代には、空海の真言宗と最澄の天台宗が日本仏教の主力となり、

空海や最澄が四天王寺に借住し修行されていたこともあり、

長らくの間、真言宗と天台宗から掛け持ちで四天王寺の別当(今でいう執事長)を

務めれらていたという歴史があります。

 

ただ、空海が密教中心の教えであったのに対し、

最澄の天台宗では聖徳太子と同じ法華経を重要視していたことや、

最澄が聖徳太子を誰よりも師と崇拝していたこともあって、

四天王寺は徐々に天台宗との関係を深くしていきました。

 

戦前までは長らく天台宗に属していましたが、

近年では日本の宗派の種類が増えていたこともあり、建立当初の基本に戻るべく、

どの宗派の方でも四天王寺をご参詣いただける様にと願いを込めて1946年(昭和21年)に

天台宗から独立し、十七條憲法の第一條「和を以って貴しとなす」の

「和」をいただいて1949年(昭和24年)「和宗」となりました。

 

 

正式名称は、鯨鐘楼(げいしょうろう)といいます。

内部に鐘がありまして、ひもを引くと音が鳴り響きますルンルン

 

聖徳太子をお祀りしているお堂(天王寺のご廟)で、

正式には「聖霊院(しょうりょういん)」といいます。

太子信仰の中心となっています。

 

前殿には十六歳像・太子二歳像・四天王が奥殿には

太子四十九歳像(1月22日のみ公開の秘仏)が祀られています。

毎年2月22日の「太子二歳まいり」ではお太子様の知恵にあやかるべく、

2歳前後のお子たちを連れたご家族で賑わいます。

 

奥殿基壇内(地下)にはご信者さんにより永代奉安された

太子観音像[極楽・水子・施薬・知恵・厄除・子育の六観音]が安置されております。

他に毎月22日の太子忌法要、 六観音法要、そして毎年10月22日経供養には

信者さんより奉納された写経も併せて供養されます。

 

野沢菜原種 旅の起点ですって・・・

 

普賢菩薩かかれてますねぇ

 

番匠堂

聖徳太子は、日本に仏教を広められると共に、

わが国に朝鮮半島・百済国より番匠と称される数多の名工を招請され、

高度な建築技術を導入されました。
このご事蹟をお慕いし、大工・建築技術の向上、

工事の無事安全を願う建築に携わる人たちの間でお祀りされるようになりました。

おずしの中には曲尺を手に持った曲尺太子が祀られています。

毎月22日のみご開帳されます。

 

ほらほら・・・

 

いらっしゃった

 

今一度・・・

 

可愛いなぁ~

 

同じような写真が続いちゃいましたっと

 

亀井堂は戦火で焼失後、昭和30 年に再建されました。

亀井堂の霊水は金堂の地下より、湧きいずる白石玉出の水であり、

 回向(供養)を済ませた経木を流せば極楽往生が叶うといわれています。

 

東西桁行は四間あり、西側を亀井の間と読んでいます。

東側は影向の間と呼ばれ、左右に馬頭観音と地蔵菩薩があります。

中央には、その昔聖徳太子が井戸にお姿を映され、

楊枝で自画像を描かれたという楊枝の御影が安置されています。

 

なんだか、お札のようなのが沢山水に浮かんでましたよん。

 

続きまして・・・

 

 

亀の池の上に架かっている石橋に組まれた舞台で、

毎年4月22日に聖徳太子を偲んで行われる聖霊会舞楽大法要の際には、

古来よりの作法にのっとり舞台上で舞楽が舞われます。

側面に彫られた「舞台講」とはこの舞台再建に寄進の労をとった大阪の材木問屋の集まり(講)の名称です。

 

 

境内中央に位置する雄大なお堂で、

昼夜6回にわたって諸礼讃をするところから六時礼讃堂の名があります。

薬師如来・四天王等をお祀りしており、回向(供養)、

納骨等を行う当寺の中心道場でもあります。

入口には賓頭盧尊者像やおもかる地蔵が祀られ、独特の信仰を集めています。

修正会・聖霊会などの大法要はこのお堂にて行われます。

 

 

雪が残っているもんねぇ

 

右奥にあべのハルカスが見えるもんねぇ~

 

北鐘堂と相対峙して、伽藍の両耳をなす。もと刻を知らせる太鼓を鳴らすお堂であったが、

再建の際に新たに北鐘堂と同じ黄鐘調の鐘を設け、大晦日には、除夜の鐘・招福の鐘が撞かれる。

 

 

 

 

ここからは有料

金堂

聖徳太子のご本地仏である救世観音をお祀りし、四方を四天王が守護しています。

毎日11時より舎利出しの法儀が厳修されます。南無仏のお舎利を以て、

ご先祖のお戒名(霊名)が書かれたお経木にあてられ、

又参詣者の頭にあててもらおうと多くの信者さんが参詣されます。

基壇下の青竜池より、白石玉出の清水が湧いており、

この水を亀井堂に引いていると云われます。

内壁には中村岳陵画伯筆の仏伝図が描かれています。

 

聖徳太子創建の時、六道利救の悲願を込めて、

塔の礎石心柱の中に仏舎利六粒と自らの髻髪(きっぱつ)六毛を納められたので、

この塔を「六道利救の塔」といいます。

塔の入口は南北にありますが、通常開放しているのは北側のみで、

南正面に釈迦三尊の壁画と四天王の木像をお祀りしています。

なお、この中心壁と外壁の各面に描かれた仏画は山下摩起画伯の筆によるものです。

 

 

 

内部に入れて登れるのですが、

一番上まで行っても外に出られませんでしたねぇ。

ただ、扉があるので、鍵が開いていれば外に出られたのかもしれません。

 

 

 

阿弥陀堂

現在の本堂は、昭和28年に四天王寺末寺の三重県国束寺(くずかじ)の本堂を移築したものです。本堂西側のお堂は、納骨総祭塔に納骨されるお骨を仮安置する納骨堂です。
法然上人二十五霊場の札所となっています。

 

本尊は一体の像に大黒天、毘沙門天、弁才天の顔を持つ“三面大黒天”です。

この姿からして福の神トリオの仏様は、子孫繁栄・福徳智慧・商売繁盛などにご利益があるとされ、昔から庶民の信仰が盛んでした。

毎甲子(きのえね)が御縁日として賑わいますが、特に旧正月には多くの人を集めます。

 

 

天台宗系なので、ご真言がつきものだよねぇ

 

元三大師をお祀りすることからこの名が付けられたお堂で、元和4年(1618年)の建立です。

元三慈恵大師良源は第18代天台座主であり、叡山中興の祖といわれています。

また、おみくじの創始者でもあります。

現在は、元三大師、弘法大師、文殊菩薩、普賢菩薩、如意輪観世音菩薩、不動明王を安置しています。毎月3日の例月祭の他、1月3日には新春合格祈願護摩供が厳修されます。

 

お百度参りしている女性がいらっしゃいましたっと

 

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