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もし、誰かに「あなたの人生は幸せでしたか?」と聞かれたら、「はい、とても」と答えるつもり。「どうして?」と聞かれたら、「本をたくさん読めたからよ」と答えるでしょうね。まだ聞かれたことはないけれど。
平凡社から出ている、
人生の先輩たちに聴く、
語りおろし自伝シリーズの1つ。
『ぐりとぐら』シリーズや
『いやいやえん』の作者である、
絵本作家・中川李枝子さんの
『本と子どもが教えてくれたこと』。
李枝子さんは
1935年北海道生まれ。
父親は北海道大学農学部へ進学後、
副手となり、遺伝学を専門にしていた。
当時、同志社大学で監獄法の権威だった
留岡幸助先生によって開かれた
少年更生施設「北海道家庭学校」がある。
少年たちが「能く働き、能く食べ、能く眠る」
健康的な生活のできる施設を理想としており、
その留岡先生のもとで学び働いていた
品川義介先生の立ち上げた「白雲山荘」で
先生の考えに共鳴した父親は下宿をしていた。
その後、品川先生の講演会を通じて
小学校教諭だった母親と出会い、結婚。
父、母、姉、李枝子さん、弟、
妹の百合子さん、その下の妹と大家族。
夕食は家族みんなでテーブルを囲み
楽しくお喋りしながら食べていたと語る。
両親は二人とも読書家で、
「子どもに大事なのは情操教育」と
考えていたので、貧乏と言いながら
父親は子供達に本を買っていたという。
4人目の百合子さんが生まれた頃、
第二次世界大戦が始まった。
戦局が厳しくなってくると
学童疎開令がでて姉と李枝子さんは
札幌に疎開することに。
母親は「お手伝いをするのですよ」や
「きょうだい喧嘩しない」と心配し、
父親は疎開先に本を持っていけるようにと
りんご箱へ荷造りをしてくれたと振り返る。
考えてみたら、疎開生活は一年で終わったし、原爆も空爆も知らない。学校で私たち低学年はみそっかすでした。それでも、不安と恐怖の日々でした。
(中略)
家の近くにクローバーの原っぱがあって、学校から帰ると子ども同士集まっていました。大人はかまってくれないから、皆で集まってはおしゃべりするのです。食べるものの話はしなかった。おいしいものを知らないもの。食べたことがないし。話すのはいつも、戦争のなかった頃の話でした。お母さんがどんなにやさしかったか、どんなにおしゃれをしていたか。それだけで、気が済むのです。私たちはただただ戦争のない世界に行きたかったのです。
直接的に原爆や空襲に遭わなくても
当たり前の生活を奪われているのを
子どもたちは感じ取っていた。
原っぱに集まった子どもたちが
「戦争のなかった頃の話」を
している姿を想像するだけで
胸が締め付けられる気持ちになる。
戦争が終わり、父親が福島の
蚕糸試験場の支場長に任命され、
一家は北海道から福島へ引っ越す。
李枝子さんは小学校高学年の頃。
やがて中学校へ進学。
当時は小学校に間借りするような
ないないづくしの中学校だったのに
「新制中学には図書室を設置すべし、
司書はいずれ置くべし」とGHQの命令で
なんと図書室はあったという。
戦後一斉に新潮社や岩波書店が
子ども向けの児童文学を発売しており
岩波少年文庫から新刊が出るたびに
李枝子さんも夢中で読み耽った。
ちょっと長くなるけれど
子ども時代にたくさんの本を読み、
本を通じて世界を見てきた
李枝子さんの言葉を引用したい。
(素敵すぎて絞りきれなかった)
子どもの文学だから、主人公の子どもは実に生き生きとしていて、魅力的です。その子どもたちに、私は強く惹かれました。まわりの大人たちもしっかりと描かれていて、自分がお手本としたいような立派な大人や、子どもをよく理解してくれる理想的な大人がたくさん登場する。もともと、子どもは恨んだり、嘆いたり、絶望したり、悲観したりしないのではないかしら。私が本のなかで出会った子どもたちも、その後実際に出会う子どもたちも、今をより愉快に素晴らしく過ごそうと精一杯生きている。前進あるのみで、「赤ちゃんのときどうだった」なんて過去を振り返っている暇はないでしょう。いつも前を向いています。喜怒哀楽すべてを頭のてっぺんからつま先まで全身で表現しています。
私たちと同じ世代の子どもたちがどうしていたのか、とっても興味があったのね。自分のいる場所は家と学校だけだったから、東京と北海道と福島以外の日本と外国、戦争に勝った国も負けた国も、全部知りたかった。なにしろ外を見たかった。見ざる聞かざる言わざるの時代、私と同じ世代の子どもたちがどんな暮らしをしていたのか、第二次世界大戦をどう生きていたのかを知りたかったのです。
児童文学のテーマは成長だと、私は思う。質の良い本は、読者も成長させます。主人公になりきって、共に成長していく自信と安心、希望を、与えてくれるのではないかしら。
「どんな本を読んだらいいか」とよく尋ねられますが、私は、面白いから本を読んだのです。賢くなろうなんて思わない。学校でいろいろお勉強をするけれど、人間について大事なことを学ぶには本も大切、それに、本は、子どものときに読んでも面白いし、大人になってから読んでもまた別の楽しい読み方ができるものです。今の子どもたちが本を読まないというのは、怖いですね。人は言葉によって人になる。言葉を定着させるものとして本がある。本を読まなくなったらどうなるかと、石井桃子さんは心配していましたよ。
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子ども時代に出会った
文学作品の数々に魅了された李枝子さん。
子ども向けの文学の主人公は「子ども」、
ひとりひとりがとびっきりの個性で
お話の主人公になれる要素を持っている。
そんな子どもたちに接する仕事をしたい、と
李枝子さんは夢を抱くようになる。
中学生のときに村岡花子翻訳の
『ジェーン・アダムスの生涯』を読み
彼女の設立したセツルメントは
いろいろな子どもたちが集まってきて
いいなと感じていたし、
父親からは家庭学校で暮らす
愛すべき少年たちの話をよく聞いていた。
そうこうするうちに
父親が東京に転勤になり、
李枝子さんは希望する保母学院へ進学し
2年間みっちりと児童福祉を学ぶ。
そしてその後17年間働くことになる
「みどり保育園」へ新米保母として就職。
遊ぶには、頭と心と体を使います。上手に遊ぶ子は想像力が豊かだし、うまく遊ばない子は想像力が乏しい、ということもわかりました。そこで、「私の仕事は、彼らの想像力を育てることだ」と考えるに至ったのです。想像力を育てるには文学です。これは私の得意とする範疇ね。それでお話、紙芝居、絵本を活用したのです。子どもたちは毎日喜んで通ってきました。紙芝居や絵本は、原っぱにはないから。
保母学院の頃、朝日新聞に
童話の同人誌グループ
「いたどり」が紹介されていて、
いぬいとみこさんが岩波書店で
少年文庫の編集に関わっている
という記事を読む。
自分がいかに岩波少年文庫が好きかを
手紙に書いて送ったところ、
いぬいさんから「いたどり」に誘われる。
そうして作品を書くきっかけが生まれ、
出来上がったのが『いやいやえん』。
イラストを描いたのは、
李枝子さんの妹・百合子さん。
いぬいさんが上司の石井桃子さんへ紹介し
福音館書店から絵本として刊行されることに。
「私の幸運は、岩波少年文庫に出合えたこと、
そして石井桃子さんに出会えたことです。」
李枝子さんにとって石井桃子さんとの関係は、
勉強会へ誘ってもらったり、共訳を手がけるなど
生涯を通じて学び合える先輩・後輩だったようだ。
この本の最後に李枝子さんが
繰り返し語られていること。
それは戦争を体験した幼少期に
「戦争のない世界に行きたい」と
思っていた切実な思いと、
戦争がどんなに怖いものかを
伝えることは難しいということ。
実際に体験していなくても
知らない・わからないままではなく
だからこそ本を通じて自分なりに
理解をしてほしいということ。
本を読むことは、口先だけでわかったつもりになっていても、ほんとうに理解するのは難しいことを、自分なりにつかむ助けになります。戦争のことだけではないですよ。つらいとき、悩んだとき、困ったとき……人生の節目節目で、本が寄り添い、支えてくれる。皆さんにも、本を読んで、そんな体験をしてもらいたいです。
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ここでは紹介しきれなかったが
みどり保育園で働いていたころの
天谷保子先生をはじめとする
園を応援するみなさんとの交流や、
夫で、仕事のパートナーでもあった
画家・中川宗弥さん、息子さんとのこと、
そのほか子ども時代から大人になるまで
出会った印象深い本の数々が
ひとつひとつ丁寧に語られている。
100ページ程度の短い本のなかに
本が好き!という熱い気持ちと
子どもたちに対する愛情が
ひしひしと伝わってきて
語り尽くせないくらい、
とても素敵な一冊だった。
本を読まなくても生きていけるけど
わたしは本のある人生の方が好きだ。
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