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「エッセイストと言う生き方」とはなにかになるための生き方ではなく、自分はどんな人間になりたいのかを考える生き方です。日々の暮らしと自分自身をまっすぐに見つめて、よろこびや気づきと言う心の小さな動きを感じ、それを明確にできる生き方です。
元「暮らしの手帖」の
編集長だった松浦弥太郎氏。
彼自身は20代の頃から
エッセイを書くことが
日常の一部だったいう。
そんな公私共に
「書くこと」が習慣の彼が
エッセイとはなにか?
について、真っ向から
向き合って書いた本。
そして「エッセイスト」というのは
ごく一部の人の特殊な職業ではなく
生き方の一つであって、
誰でも「エッセイスト」的な
物事の見方や考え方を身につけて
生きるのはどうだろう?と提言している。
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情報が溢れているいま、
自分自身の解像度が低くなり
仕事も暮らしでも
混乱しがちで不安定な
人が増えている。
エッセイを書くという行動を通して
自分自身の心を観察し、理解する。
自分はなにが好きで何が苦手か
日常のささやかな変化に目を向け
自分はなにに幸せを感じるのか、
人生をどういうふうにいきたいのか、
言葉を紡ぎながらクリアにしていく。
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第1章では”エッセイとは、なにか“
松浦弥太郎氏はエッセイについて
「パーソナルな心の様子を書いた文章」と
定義づけをしている。
ただ出来事を書くのではなく
それによって自分はどう感じたか、
ということに考えを巡らせて、
自分の心の内面に焦点をあてて
文章に表現すること。
エッセイには「視点」があり、
変化の記録であると言うこと。
とくにいつまでも忘れたくないような
ずっと心に残しておきたい宝物を、
書き記して残す営みなのだと。
人間、忘れたくないと思っても
記憶だけではいつかは忘れてしまう。
今の自分にとって忘れたくない事は何か
今の自分にとって何が大切で
何を書き残しておきたいかを
意識することが自分自身の理解を深める。
また、エッセイとは、
「自分の哲学」だと言う。
感情の揺れに気づき、自分なりの「視点」で見つめ、発見した「秘密」の告白文。
(中略)
エッセイを書くと言う事は、日々を過ごす中で「いちいち考える」ということです。自分や他者、できごとやものごとを流し見しない。足をぐっと踏み締めて、立ち止まる。「見つめる」「立ち止まる」「考える」と、言葉にするとかんたんそうですが、周りの人や世の中の人を見ていると、「いちいち考える」ことがいかに難しいことなのかを感じます。
誰でも気づくことに
気づいても面白くない。
他の人が気づかないことを
自分なりの「視点」で捉えて、
それを自分の言葉で伝えること。
それがエッセイ。
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第2章の”エッセイストという「生き方」“では
「ドクター・ユアセルフ」という
言葉を紹介している。
松浦氏は同名の洋書を読んで
この言葉に出会ったらしい。
「ドクター・ユアセルフ」ーーーあなた自身の医者であれ。
この言葉を僕なりに解釈すると、自分を客観視して、コントロールすることで、ほんとうの意味で健康的に生きていこうということです。
身体で言えば、医者や薬、手術といった医療に頼り切るのではなく、日々の生活や食事、睡眠、運動といった自分の活動によって健康を維持する。
心で言えば、だれかがしあわせにしてくれるのを期待するのではなく、本を読んだり、おしゃべりをしたり、はたらいたり、ほんとうに大切なものと暮らしたりと、日々の中に自分なりのしあわせを見つけることで健康を維持する。
「ドクター・ユアセルフ」は
自分自身の人生に責任を持って
よりよく生きていくことであり、
エッセイストの生き方はこれに近いと
松浦氏は語る。
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第3章は“書くために、考える“。
一つなるほどなぁと思ったのは
エッセイとは、「知っていること」ではなく「わかったこと」を書くものです。これはとても大事なポイントです。
「知る」と「わかる」は異なる。
今の世の中はスマホや
パソコンでネットで検索すれば
誰でも簡単に「知る」ことはできるが
情報を消費しているだけになっていないか。
ひとつひとつのことに
時間をかけて向き合い、
自分で頭を働かせて考える、
そうしてようやく、
本質を理解することができる。
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普段日記やブログを書いていて
自分は「書く」ことで
心のバランスをとってきたと
前から感じていた。
自分にとっては
ほかに気持ちのやり場がなくて
やむにやまれず始めたことだが
いまとなっては生活の
自然な習慣の一つになっている。
「文章を書く」ことで
自分を支えてきた人ならば
この本はすごく心に
寄り添ってくれると思う。
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