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先日行ってきた、

「おかやま文学フェスティバル」での購入本。



三島由紀夫の言葉を

あちこちの文献から集め

テーマごとにまとめた本。

 

 

 

この本の編者である

佐藤秀明氏は「まえがき」で

次のように語る。

 

 

 

 三島の文章には、穿った、ある意味ではひねくれた「綾」が多い。

「あるある」感といった安易な共感とは結びつかないのである。

(中略) 本書を読む場合も、「最もよく使われる文脈」を想定して考えるのもよいし、読み手独自の文脈に当て嵌めて読んでも一向に構わないと私は考えている。むしろ、読者個人の文脈に当て嵌めて読まれることを、これらの言葉は期待しているのである。

(中略)

 それがこのような箴言集の、最も有益で不埒な愉しみ方であるに違いない。その際には、意味だけでなく、ぜひとも言葉の選び方や運び方も味わっていただけたらと思う。

 

 

 

 

三島由紀夫が

どういうシュチュエーションで

その言葉を放ったかは

出典元の前後の文を

当たってみないと正確には

わかるべくもないけれど、

本来の正しい意味を追求するより

ぽんと切りとるように差し出された言葉から

何をあなたが感じるか?が

大事なのだと編者は語る。

 

 

 

なので編者の言うところの

「不埒な愉しみ方」に倣い

この本のなかから気に入った言葉を

私の拙い感想とともに

いくつか書き留めておく。

 

 

 

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◇二人が恋に落ちるとき

 

 私自身の経験に即して言うのですが、性や愛に関する事柄は、結局百万巻の書物よりも、一人の人間から学ぶことが多いのです。われわれ異性に関する知識は、異性のことを書いたたくさんの書物や映画よりも、たった一人の異性から学ぶことが多いのです。ことに青年にとって、異性を学ぶということは、人生を学ぶということと同じことを意味しております。「わが思春期」(「明星」昭和32<1957>年1〜9月)

 

 

 

これは本当にその通りだと

うなづきながら読んだ。

書物の知識は役に立つけれど

百聞は一見に如かず、

実体験の学びには及ばない。

 

 

 

恋愛小説や漫画を

どれほどたくさん読み込んだって

恋愛上手になれるとは限らない。

 

 

 

 

 どんなに醜悪であろうと、自分の真実の姿を告白して、それによって、真実の姿を認めてもらい、あわよくば真実の姿のままで、愛してもらおうなどと考えるのは、甘い考えで、人生をなめてかかった考えです。

「不動徳教育講座」(「週刊明星」昭和33<1958>年7月27日〜34<1959>年11月29日)

 

 

 

 

この言葉はつい先日感想を投稿した

『女に生まれてモヤってる!』の

中野信子さんの言葉にも

すこし繋がるような気がする。

 

 

 

中野 少女漫画の影響なのか「自分を理解してもらわないと結婚できない」と思い込んでる女性が多い気がしますが、逆に相手から「本当の自分」のような重いものを見せられて受け入れられるかな?私は嫌だなぁ。家にそんな重たい存在はいて欲しくない。自分ってそもそもモザイクであり、幻想ですから。

 

 

 

自分らしくありのままに

生きることは素敵だが

相手に対してなにもかも

さらけ出すのが最良とは限らない。

 

 

 

自分のダメなところも

許してくれてこそ

ホンモノの愛だと思ったら

それは大いなる勘違い、

ただのおめでたき人なのかも。

 

 

 

 

 

◇美しく恐ろしき若者よ

 

 私は青春時代の読書を、つくづく振返ってみるのですが、あれほど自己弁護のために、読書する時代はありません。従って逆に言いますと、読書がそれほど人生の助けになり、身につく時代もありません。客観性を欠いた読書、批判のない読書、そして自分のためだけの、自分の気に入ることだけをひっぱり出すための読書、自分で結論が決まっていて、その結論にこびるものだけを取り出す。読書、若い人の読書は、おおむねこういうものが多い。

「青春の倦怠」(「新女苑」昭和32<1957>年6月)

 

 

 

読書というものは、

特に若くて弱い立場の人々にとって

自分の気持ちを代弁してくれるもの、

自分の考えを裏付けしてくれる

答えを探し出す場所だ。



たくさんの書物を読んで

知識を得て、考える力を身につけ

若い人は自分の蓄えにしていく。

 

 

 


 

 

 

◇文を綴り味わう者へ

 

 

 作品を書いて発表することが、すでに多少の滑稽な己惚れと、自分に対する計算違いがなければできないことで、もしもっと己惚れが強くなり、それと同時に、過去の自分に対する計算が正確になれば、上田秋成のように過去の作品を残らず井戸に投じなければならないであろう。自分がいいと思わないものでも、誰かがいいと思ってくれるかもしれないと言う、抵抗しがたい甘えの誘惑があるから、私もここに十四篇を選ぶことができたのだ。

「あとがき(「三島由紀夫作品作品集」1〜6 )」(「三島由紀夫作品集」5、新潮社、昭和29<1954>年1月)

 

 

 

物書きとなる人間の条件を

自虐的でユーモラスに捉えている。

ひょっとしたら自分は

文章の才能があるかもしれないという

ちょっとした勘違いや自信がなければ

己の文章を人前に晒そうなんて

発想にならないという。

 

 

 

身の丈に収まっているより

ちょっとはみ出すくらいが

人生は面白いだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

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