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日本にいま必要なのは「訂正する力」です。

 

 

 

そう語るのは、この本の著者である東浩紀氏。

「訂正する力」とは、なにか。

それは、物事を誤ってしまった時、

その間違いを認めて改めること。

 

 

 

日本は多くの魅力を持っている国だ、

ところが政治は澱み、経済も停滞している。

明治維新、第二次世界大戦…

一からの再出発を経て成長してきたせいか

日本は行き詰まるとリセット願望が強くなる。

しかしそれでは単純すぎる。

 

 

 

成長ばかりを求めるのではなく

やがて成熟を迎えなければならない。

人間自身に例えれば、老いを肯定し、

若い頃の過ちを「訂正」し、

「老い=変化する」ことを受け入れること。

 

 

 

だが日本は「変化=訂正」を嫌う文化がある。

政治家は謝らない、官僚も間違いを認めない。

一度決めた計画は変更しない。

誤りを認めないので、謝らない。

 

 

 

挙げ句の果ては意見を変えないことは

「ぶれない」ことだと履き違えている。

これでは議論をしてもお互いに譲らず

相手の意見を聞いて変わることもない。

 

 

 

訂正する力は、「リセットする」ことと「ぶれない」ことの間でバランスを取る力でもあります。

 

 

 

本当に必要なのは、

何もかも白紙に戻してやり直すことや

考えを変えない頑固さではなく

物事の姿を「じつはこうだった」と再解釈し、

間違いを認めて改めるという

「訂正する力」なのだ。

 

 

 

「はじめに」に書いてある

10ページ程度の文章だけでも

十分に読み応えのある考え方が

述べられていて面白い。

 

 

 

 

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さらに本文へ読み進めていって

この本で一番印象に残ったところは

次のふたつ。

 

 

 

ロシアの文学理論家である

ミハイル・バフチンによると

『ドストエフスキーの詩学』という本で

対話が重要と説かれており

その定義とは「いつでも相手の言葉に対して

反論できる状況がある」ということ。

 

 

 

どこまでも続いていくのが

対話の本質であって、

発言の訂正を繰り返しながら

一緒に共通の語彙を作っていくこと。

何かの結論出して終わりというのは

決して対話ではない。

 

 

 

ぼくはつねに、自分のイメージを訂正されたいし、他人のイメージも訂正したいと感じています。対話を終えて、相手が「東さんはじつはこういうひとだったのか」と思ってくれて、ぼくのほうも「このひとは、じつはこういう人だったのか」と思う。そういうものが生産的な対話だと考えています。

 

 

 

私の勤める会社の中でもよく

「対話すること」を重んじている。

が、真の対話とはなにか?と聞かれると

はっきりわかっていなかった。

相手の話に傾聴し深く理解すること

…くらいに考えていた。

 

 

 

けれどこの本を読んで、

対話とは相手のことを

「じつはこうひとだったのか」と発見し

自分の中の相手への解釈を更新しながら

理解を深めていくことなのだと腑に落ちた。

 

 

 

 

 ぼくは人間と人間は最終的にわかりあえないものだと思っています。親は子を理解できないし、子も親を理解できないし、夫婦もわかりあえないし、友人もわかりあえない。人間は結局のところだれのことも理解できず、だれにも理解されずに、孤独に死ぬしかない。できるのは「理解の訂正」だけ。「じつはこういうひとだったのか」と言う気づきを連鎖させることだけ。それが僕の世界観です。

 

 

 

 

著者が考える大事なこととは、

人が理解し合うという空間を作ることではなく、

むしろ「お前は俺を理解していない」と

永遠に言い合う空間を作ることだという。

 

 

 

「じつはこうだったのか」という

発見に出会った時に、素直に

自分の思考を訂正できるか?

果たして自分は思い込みを

貫いてしまっていないかと

反省しながらこの本を読み終わった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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