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「殺人事件がそうたびたび起きるとはね!何度も人殺しをしながら罪をのがれるということは、かなり難しいですよ」
ミス・ピンカートンは首を振った。
「いいえ、その考え方はまちがっていますわ。殺人はとても容易なんですよーーーだれにも疑わなければね。じつは問題の人物は、だれも疑ってみようともしないような人なのです」
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植民地帰りの元警官ルークは、列車内でたまたま同席した老婦人から奇妙な話を聞いた。彼女の住む村で密かに殺人が行われている、彼女はその犯人を突き止めたので警視庁に訴えに行くという。くだらぬ妄想だと聞き流したルークだったが、翌日の朝刊をみて愕然とした。その老婦人が車に轢き殺されたと言うのだ……。(裏表紙あらすじより)
『殺人は容易だ』、
原題は『Murder is easy』。
ポワロもマープルも登場しない
ノン・シリーズのひとつ。
ルーク・フィッツウィリアムは、
もと植民地駐在の警察官。
ロンドンへ帰る途中の列車で
とある老婦人から不思議な話を聞く。
それは彼女の住む長閑な村で
立て続けに人が死んでいるが
実は事故に見せかけた殺人なのだと言う。
老婦人は犯人の正体に気付いたので
警察署へ知らせに行くのだそうだ。
老婦人の突飛な空想に違いないと
最初ルークは受け流していたが
翌朝の新聞にその老婦人が
轢き殺されたという記事を見つける。
おまけにハンブルビーという
町医者まで死亡欄の記事に載っている。
彼は老婦人が次に狙われるに違いないと
予言していた人物だった。
果たして偶然の一致なのか?
それとも老婦人の言うように
誰にも疑われることもなく、
同じ犯人によって殺人が行われているのか?
真相を突き止めるために、
ルークは問題の村へ向かうことにする。
…とまぁこんなふうに、
ひょんなことから主人公は
事件の入り口をのぞいてしまい、
そして中へ入っていくわけだ。
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読んでみるまですっかり忘れていたが
一度読んだことのある作品だった。
それなのに、どういうストーリーだったか
さっぱり記憶が抜けていたので
初見のようにスリリングに楽しめた。
『殺人は容易だ』という不気味な題名、
江戸川乱歩の『赤い部屋』を思わせる
誰にも気づかれない完全犯罪、
まるでただまわりの人間を殺すことを
愉快がっているような連続殺人。
精神に異常のある人間の犯行なのか?
しばらくするとアリバイの有無から
4人の容疑者が自然と浮かび上がってくるが
どの人間にもこれといった決め手がない、
どう考えても動機が見当たらないのだ。
身分を隠して村に潜入したルークと同じく
読みながら途方に暮れかけた頃、
物語の途中にふと語られる
ある人物の昔のエピソード。
絶対こいつが犯人だ!と
ゾワゾワと確信するのだけれど
最後まで読み切ってみれば
まったく違う人物が黒幕だった。
過去から現在まで、
ありとあらゆる関係者を
物語に放り込んできて
それらの人間関係が明かされた時
まるでオセロをひっくり返すように
物事が一気に真逆の意味に変わる。
いやはや、またしても
クリスティーにやられてしまった。
しかし、この作品が面白いのは
推理小説としての出来栄えだけでない。
『殺人は容易だ』はミステリでありながら
もう一方では恋愛小説でもあるのだ。
私がクリスティーを好きなのは
こういうところに理由があると思う。
ハードボイルドな事件だけでなく
ロマンチックな恋愛要素が
時折物語に混じっているのだ。
ウィッチウッド・アンダー・アッシュ村を訪れ、
ルークはブリジェット・コンウェイに出会う。
彼女はホイットフィールド卿の元秘書で
彼にみそめられて婚約中であった。
絵画に描かれる魔女のように
知的で優美な身のこなしのブリジェットに
出会った瞬間から惹きつけられ、
ルークは恋に落ちていく。
二人の会話がとてもいい。
未読の方は読まずにいてほしいけれど、
どうしても好きなセリフがあったので
ここで引用しておく。
「ああ、何もかも狂っちゃってるみたいだ!」と彼はいった。
「ルーク、あなたは幸福?」
「いや、べつに」
「あたしと結婚したら、幸福になれると思う?」
「それはわからないけど、一か八かやってみよう」
「そうよーー私もそんなふうに思っているの」
「好きだということは、愛していることよりもずっと大切だと思うわ。長つづきするから。あたしはあたしたちのあいだでいつまでも続くものがほしいのよ、ルーク。ただ愛し合って結婚して、おたがいにあきてしまって、ほかの人と結婚したくなるようなことは、したくないわ」
クリスティーの作品は
どんなに複雑な殺人も
事件は事件として解決し、
大抵すっきりする終わり方だ。
罪を重ねた悪人には裁きを、
善良な人たちには
ハッピーエンドを。
物語の最初と最後では、
まったく別の景色が見える。
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▽ひとつ前に読んだクリスティーの作品
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