人は、苦労や苦難を嫌がるものです。

誰だって、わざわざ辛い思いをしたくないし、幸せになりたいと願っています。

 

なので、この世で幸せというと、次のようなイメージーー

ーー仕事が順調でお金もいっぱいあって老後も安泰、健康にも恵まれ、

家族仲良く暮らせて、多くの時間を趣味(好きなこと)に使えるなどーー

を思い浮かべるのではないでしょうか?

 

そのため、こういった現世利益を、神の恵み・祝福の道だと勘違いしています

ですが、人が 神の存在を無視して幸せを求める時、

そこには甘い落とし穴があるのです。

 

 

 

まず、死の道とは、この世で自分の幸せを求めて生きることです。

この世が言う幸せとは、人を欲に繋ぎ止め(肉によって歩む)

死後のことに意識を向けさせないようにするものだからです。

 

つまり、この世に属する人間の幸せ・理想とは、実は 死の道のことなのです。

なので、この世で幸せを求めて生きているとしたら、

それは死の道を歩いていると言えます。

 

 

(聖書は、基本的にリビングバイブル:改訂新版(いのちのことば社発行)より引用)

12だれでも、広く歩きやすい道が正しい道と考えますが、

それは死に通じる道です。

(箴言 14:12)

 

 

 

人は、人生が順調に行って幸せを感じる時こそ、

すぐに気が緩んで 思い上がってしまうものです。

まるで自分の力だけで成り上がったかのような錯覚を起こし、

周りへの感謝が無くなるばかりか、欲を満たすために突っ走るようになります。

時に、成功者や権力者などが、ありえないレベルの不祥事を起こしてしまうのも、

神を恐れない以上、自分の思いのまま(欲のまま)に生きることを選ぶからです。

 

この世で幸せを満喫し、自己満足を追い求めている限り、

自分ではもっとよくなりたい・考え方を変えたいと思っても、

何一つ変われず 堂々巡りになるだけです。

(むしろ、自分では気が付かないうちに堕落してしまいます)

 

 

人が、いかに生まれながらにして心が悪い・罪深い存在であり、

欲に際限がないということを知らないと、甘い考えに目がくらみーー

ーーこの世で幸せに楽しく暮らせたら 満足して心置きなく死ねるとか、

善行をたくさん積んだから 悪いことを見逃してもらえるなどの都合がいい考えーー

死後のこと・永遠のことを考えなくなります。

 

人は、必ず一度死ぬことと、神の裁きを受けることが決まっているのですから、

どんなに否定しようが、その時が来たら逃れることはできません。

 

 

 

 

次に、祝福の道とは、天の御国に入るのにふさわしくなるよう、

練りきよめられる人生のことです。

その練りきよめられるためには、苦労や苦難もくぐり抜けなければなりません。

 

ただ、その苦難の質は、神に従う時と 従わない時とでは全く違います。

 

神に立ち返る前は、真理を知らない無知の状態であり、

自分が思うがままに行動したゆえに招いてしまった苦労や、

神に無関心でこの世のものに依存してしまった(自分の欲を満足させた)ために

疲れ果てて心の病になるなど、肉によって生きた結果(罪)の刈り取りがおもでした。

 

また、苦難を通して自分の無力さを知り、

神を呼び求める(神に心を向け、神に立ち返る)ためでした。

 

 

ですが、神に立ち返ってからの苦労・苦難とは、

真理を知り、心は平安に満たされながらも、

キリストの苦しみにあずかる者として歩むことで、

日々、キリストに似た者へと練りきよめられるためにあるのです。

 

 

では、このキリストの苦しみにあずかるとは、どういうことでしょうか?

これは、単に迫害などの肉体的の苦しみだけを指すのではありません。

精神的な痛みも含まれていると私は思っています。

この痛みとは、人(特に家族などの身近な人)が救われてほしい

という願いからくるものです。

 

 

実は、一番悲しみを持っておられるのは、神なのです。

地獄に行ってしまったら、もう二度と出られず取り返しがつかないため、

神は 様々な出来事や宣教を通して、

人々に 神に立ち返るよう呼びかけ続けています。

ですが、事の重大さを知らない人々は、関心すら持ってくれません。。

必死で呼びかけても 無視&反発され続けるばかりです。

 

その結果、今、この時も人は死んで、

そのほとんどが地獄(ハデス)に落ちていますし、

生きている側の人間も、死後のことなど何処吹く風で、

罪を積み重ね、地獄への道を呑気に歩み続けています。

 

 

 

イエス様は、誰よりも悲しみの人でした。

イエス様は神ご自身ですから、誰よりも神の裁きの恐ろしさを知っていたので、

悲しみのあまり死にそうだと もだえ苦しまれました。

 

 

33イエスはこうお命じになると、

ペテロとヤコブとヨハネだけを連れて、奥のほうに行かれました。

そして、恐れと絶望に襲われて、イエスはもだえ苦しみ始められました。 

34「わたしは悲しみのあまり、今にも死にそうです。

ここを離れず、わたしといっしょに目を覚ましていなさい。」

(マルコの福音書 14:33~34)

 

 

イエス様が この時 もだえ苦しまれたのは、

待ち受ける十字架刑への恐怖のためではなく、

心の悲しみーー残された人々を思っての悲しみ・

この世の人々に降りかかる神の裁きを思っての悲しみーーゆえです。

 

もともとイエス様は、十字架の贖いのためにこの世に来られたこと、

18だれもわたしの意に反して、わたしを殺すことはできません。

わたしが、自分から進んでいのちを捨てるのです。

わたしには、いのちを自由に捨て、もう一度それを得る権威と力があるからです。

(ヨハネの福音書 10:18)

と仰っていたことからも 人々のことを思っての痛みだと分かります。

 

 

27大ぜいの民衆や、イエスのことを悲しむ女たちがあとからついて行きます。

28イエスは女たちのほうをふり向き、とぎれとぎれに言われました。

 

「エルサレムの娘たちよ。わたしのために泣いてはならない。

自分と、自分の子どもたちのために泣きなさい。 

29なぜなら、子どもを持たない女のほうが幸いと思う日が、

すぐにでも来るのです。 

 

30その時、人々は山に向かって、

『私たちの上に倒れて、押しつぶしてくれ!』と叫び、

丘に向かって、『私たちを埋めてくれ!』と頼むでしょう。 

31生木のわたしさえ、こんな目に会うとしたら、

枯れ木同然の人たちには、いったい、どんなことが起こるでしょう。

(ルカの福音書 27~31)

 

 

雪の結晶

 

3私たちは彼をさげすみ、受け入れませんでした。

彼は悲しみの人で、

苦しみをなめ尽くした人でした。

(イザヤ書 53:3)

 

 

 

預言者エレミヤ、使徒パウロなど神に仕えた人々も、

自分自身をきよく保ちつつ、心が痛む道を歩み続けました。

 

人々があのまま自分勝手に生きたら滅んでしまうと分かっていたので、

心が痛まずにいられなかったのです。

 

彼らは、一人でも救われてほしい思いで 必死に神の言葉を宣べ伝え続けましたが、

聞いた人々は その事実を知らず理解しようともせず、

自分の生き方を変えたくないがために激怒して迫害しました。

 

 

1-3私の同胞であるイスラエルの人々、同国人であるユダヤ人の人たちが

キリストのもとに来ることを、私はどんなに望んでいるでしょう。

昼も夜も、彼らのことで心は重く、

悲しみのあまり、胸も張り裂けんばかりです。

(ローマ人への手紙 9:1~3)

 

 

(同じ箇所の新改訳)
1 私はキリストにあって真実を言い、偽りを言いません。

次のことは、私の良心も、聖霊によってあかししています。
2 私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。
3 もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、

この私がキリストから引き離されて、

のろわれた者となることさえ願いたいのです。

(ローマ人への手紙9:1~3節 新改訳第3版)

 

 

雪の結晶

 

28こんなことのほかに、諸教会がどうなるかという心配を

絶えずかかえています。 

29誤った道を進んでいる人を見て、悲しまないでいられるでしょうか。

倒れている人を見て、知らん顔ができるでしょうか。

精神的に痛手を受けている人を見て、

傷つけた相手に激しく怒らずにいられるでしょうか。

 

30しかし、もしどうしても誇る必要があるなら、

私はむしろ、自分の弱さを誇ります。 

(コリント人への手紙Ⅱ 11:28~30)

 

 

 

パウロのあのすさまじい苦難は、

過去に自分が迫害した罪の刈り取りのせいではありません。

自ら神の苦しみにあずかることを選んだ結果です。

 

確かに、パウロは救われる前は迫害者でした。

でも、真理を知らなくて罪を犯していたために、神の憐れみを受けました。

 

パウロは、自分のことを罪人の頭と書いたことからも、

神をひたむきに愛し求めたゆえに 自分の罪を深く知ることができ、

それゆえにキリストの苦しみにあずかり、人生を神に仕えきることが出来た

分かるのです。

 

 

29あなたがたは、ただキリストを信じるだけでなく、

キリストのために苦しむという特権をも与えられているのです。 

30私たちは、共に戦っているのです。

あなたがたは先に、キリストのために苦しんでいる私の姿を見ました。

そして、今なお、激しく大きな戦いの真っただ中にいる私のことを、

よく知っているはずです。

(ピリピ人への手紙 1:29~30)

 

 

雪の結晶

 

しかしご存じのとおり、クリスチャンにとって困難とは、

神の計画の範囲内の出来事なのです。 

4私がそちらにいた時、やがてきっと苦難が訪れると警告しておきましたが、

それが、いま現実となったのです。

(テサロニケ人への手紙Ⅰ 3:3~4)

 

 

雪の結晶

 

20というのも、私はこのような期待と希望とをいだいて生きているのです。

すなわち、一つも自分で恥じるようなことはせず、

かえって、この試練の時も、いつものように大胆に語り、

また、生きるにしても死ぬにしても、いつもキリストのすばらしさを

身をもって現したいと願っているのです。 

 

21私にとって生きることは、キリストのために良い機会を得たことを意味し、

死ぬことは、さらにすばらしいことを意味するからです。 

22しかし、生きているからこそ、人々をキリストに導く機会に

恵まれているとすれば、生と死のどちらがよいのか、私にはわかりません。

 

23ある時は生きていたいと思い、また、ある時は反対の気持ちになります。

というのも、私にとって、この世を去ってキリストのそばにいることほど

願わしいことはないからです。

そのほうが、地上にとどまっているより、どれだけ幸せかわかりません。 

 

24しかし、地上では、もっとあなたがたの役に立てることも事実です。 

25私にはまだ、この世で生きる使命があるのです。

あなたがたの信仰の成長を助け、あなたがたがもっと喜びにあふれるために、

もうしばらくの間、地上で長らえることになるでしょう。 

 

26私が生き延びて、もう一度そちらに行った時、

あなたがたのうちに喜びがわき上がり、

私を無事に守ってくださったイエス・キリストを

心から賛美するようになることでしょう。

(ピリピ人への手紙 1:20~26)

 

 

雪の結晶

 

20自分が悪いことをして受けた罰をどんなに我慢しても、

何の誉れにもなりません。

しかし、正しいことをしたばかりに苦しみを受け、それを耐え忍ぶのは、

神に喜ばれることです。

 

21この苦しみは、神が与えてくださった務めでもあるのです。

あなたがたのために苦しまれたキリストが見ならうべき模範となられました。

この方について行きなさい。

(ペテロの手紙Ⅰ 2:20~21)

 

 

雪の結晶

 

12愛する皆さん。炎のように燃えさかる試練に直面しても、

あわてたり、おじけづいたりしてはいけません。

ふりかかる試練は、決して思いがけないものでも、

異常なものでもないからです。 

 

13むしろ、その試練によって

キリストと苦しみを分かち合えるのですから、喜びなさい。

やがてキリストの栄光が現れる時、

その栄光を共に受けて、すばらしい喜びを味わうためです。 

 

14もしクリスチャンであるばかりに、ののしられ、非難されるなら、

あなたがたは幸いです。

神の御霊がいっしょにいてくださるからです。

 

 

15だれも、人殺しや盗みの罪に問われたり、問題を引き起こしたり、

みだりに他人のことに首を突っ込んだりして、

そのために苦しむことがないよう気をつけてください。

そんなことが、私の耳に入らないようにしてください。 

 

16しかし、クリスチャンだという理由で苦しみを受けるなら、

少しも恥じることはありません。

それは、キリストの家族の一員として、

キリストの名で呼ばれる特権を受けた証拠ですから、神をほめたたえなさい。 

 

17なぜなら、さばきの時がすでに来ているからです。

しかもそのさばきは、神の家(教会)から始まるのです。

このように、クリスチャンの私たちでさえさばかれるのなら、

神に従わない人々には、どんなに恐ろしい運命が

待ち受けていることでしょう。 

 

18正しい人がかろうじて救われるのであれば、

神を信じない人々は、いったいどんなことになるのでしょう。

 

 

19ですから、あなたがたの今の苦しみが神の御心に添うものであるなら、

なお続けて善を行いなさい。

そして、あなたがたを造られた神に、すべてをお任せしなさい。

神から見捨てられることは決してありません。

(ペテロの手紙Ⅰ 4:12~19)

 

 

 

つまり、この心が痛むというのは、

神との交わりがあってこそ与えられる痛みであり、

神の悲しみと苦しみが 自分のものになるということです。

 

 

確かに、神に立ち返った後は、この世の間違った思考から解放され、

神の平安に満たされ、日々の生活も充実しますから、

絶対に前の状態に戻りたくないと、救われた誰もが思います。

 

ですが、一方で、人間は罪を好み堕落しやすいため、

救いから転がり落ちないよう 痛みを担うことが求められるのです。

 

そのため、私の経験上、この心の痛みと鬱とは別物で全く違います。

この心の痛みは、救われた人なら誰でも持つもので、

滅びに向かっている人を見ると心苦しくなり 救われてほしいと切実に願うものです。

逆に、全くそんな痛みなど持っていないという人は、

キリスト教の儀式をやってるだけで 救われていないと言えます。

 

また、心が痛むのは、神を恐れ、神の裁きを知っているからですから、

心の痛み=自分が罪に落ち込まないように守る神の恵みでもあるのです。

 

 

2宴会に顔を出すより、

葬式に列席するほうが良い。

やがて死ぬわけだから、

生きているうちに死について考えるのは良いことだ。

 

3悲しみは笑いにまさっている。

悲しみは、私たちの心から

不純物を取り除く効果があるからだ。

 

4知恵ある者は死についてじっくり考えるが、

愚か者はどうしたら今

愉快に過ごせるかだけを考える。

 

5愚か者からちやほやされるより、

知恵ある者に痛烈な批評を受けるほうが良い。

6愚か者のお世辞は、火にくべた紙切れのように、

何の役にも立たない。

そんなものに心を動かすのは、

なんとむなしいことか。

(伝道者の書 7:2~6)

 

 

 

もちろん、心の痛みを担うか担わないかは本人の選択次第ですが、

重荷が嫌だと逃避して 世の楽しみを求めてしまうと、

デマスのように脱落することになります。

神の愛を知りながらその愛に応えられない(自分の欲に生きたい)ほど

みじめなことはありません。

 

10-11デマスはこの世の楽しみに心を奪われ、

私を捨て、テサロニケに行ってしまいました。

(テモテへの手紙Ⅱ 4:10~11)

 

 

 

 

私自身、夫が救われていないことを示され、自分の背負うべき重荷だと知りました。

(夫は考え方がしっかりしてるし、素直にクリスチャンになったので

てっきり救われたと思ってましたが、

世に心が捕らわれているため、罪が示されておらず救われていません)

 

でも、私にとって、その重荷が嫌でたまりませんでした。

なぜなら、私は救われてほしいと強く願っているのに、

夫はこの世のものに夢中で(欲・肉によって歩んでいる)

そのままでは到底救われるかどうか分からない状態だからです。

 

もちろん、私は 毎日 口を酸っぱくして説得します。

でも聞いた本人が、自分を捨て 神に心を向けない限り、

右から左に聞き流して終わるだけです。

つまり、どんなに私が努力しても、気づくかどうかは

本人次第&神の恵みしかないのですから、

どうにもならない状況に 心がモヤっとし痛むのです。

 

しかも、救われていないことは、地獄行きを意味することであり、

このまま神様に命を取り上げられたら永遠に終わってしまうだけに

心が痛まないわけにはいきません。

 

 

楽になりたければ、現実に目をつぶり誤魔化せばーー

夫は一応クリスチャンだし大丈夫∼と思い込むならーー

気持ちは一気に楽になり安心することでしょう。

でも、逃げたところで、臭い物に蓋をするだけで事実は変わらないばかりか、

もし、このまま夫が救われずに終わったら、

さらなる深い悲しみと後悔しか残らないでしょう。

 

自分では、人の救いがどうにかなるわけではない以上、

救われてほしい願いと 救われるか分からない痛みとの板挟みになりながらも、

ひたすら神にすがって 相手の心が開かれるよう祈るしかありません。

 

 

 

 

生きている時に、この世の人と同じ幸せを求めてはいけないことは、

金持ちとラザロの話でも明らかです。

 

そのうち、あの金持ちも死んで葬られましたが、 

23彼のたましいは地獄に落ちました。

苦しみあえぎながら、ふと目を上げると、

はるかかなたにアブラハムといっしょにいるラザロの姿が見えます。 

 

24金持ちはあらんかぎりの声を張り上げました。

『アブラハム様! どうぞお助けを。

お願いでございます。ラザロをよこし、水に浸した指先で、

ほんのちょっとでも舌を冷やさせてください。

この炎の中で、苦しくてたまりません。』 

 

25しかし、アブラハムは答えました。

『思い出してみなさい。

おまえは生きている間、ほしい物は何でも手に入れ、思うままの生活をした。

だがラザロは、全くの無一物だった。

それで今は反対に、ラザロは慰められ、おまえは苦しんでいる。 

26それに、そちらとの間には大きな淵があって、

とても行き来はできないのだ。』

 

 

27金持ちは言いました。

『ああ、アブラハム様。

それならせめて、ラザロを私の父の家にやってください。 

28まだ五人の兄弟が残っているのです。

彼らだけは、こんな目に会わせたくありません。

どうぞ、この恐ろしい苦しみの場所があることを教えてやってください。』 

 

29『それは聖書が教えていることではないか。

その言うことを聞くべきだ。』 

 

30金持ちはあきらめません。

『でも、アブラハム様。彼らは聖書を読みたがらないのです。

ですが、もしだれかが死人の中から遣わされたら、

彼らも罪深い生活を悔い改めるに違いありません。』 

 

31アブラハムはきっぱり言いました。

『モーセと預言者たちのことばに耳を貸さないのなら、

だれかが生き返って話したところで、彼らは聞き入れないだろう。』」

(ルカの福音書 16:22~31)

 

 

この金持ちとラザロの話は、単なる比喩的な例え話ではなく、

本当にそのような人がいており 現実をそのままイエス様は話されたのだと思います。

神から来る心の痛み・悲しみを持たない人は、

この金持ちと同じく皆滅んでしまいます。

 

今この時も、ハデスで苦しみ続けている人達は、

「ハデス(後に地獄)は本当に存在すること、

神に従わず 自分勝手に生きた人は、もれなく地獄行きで、

その苦しみは『永遠に』続くこと」を

生きている人達に伝えてほしいと切に願っているのです。

 

 

7思い違いをしてはいけません。神を無視することなどできません。

人は種をまけば必ずその刈り取りもすることになるのです。 

 

8自分の欲望を満足させるために種をまく者は、

その結果、霊的な滅びと死とを刈り取るはめになります。

 

しかし、聖霊の良い種をまく者は、

聖霊が与えてくださる永遠のいのちを刈り取ります。 

9正しい行いをすることに疲れ果ててしまわないようにしましょう。

失望せず、あきらめずにいれば、やがて祝福を刈り取る日が来るからです。 

(ガラテヤ人への手紙 6:7~9)

 

 

雪の結晶

 

15「わたしは、あなたをよく知っています。

あなたは冷たくもなく熱くもありません。

むしろ、冷たいか熱いかの、どちらかであってほしいのです。 

 

16しかし、なまぬるいだけなので、わたしは口から吐き出します。

17あなたは、『私は金持ちだ。ほしいものは何でも手に入るし、

もうこれ以上望むものはない』とうそぶいています。

しかし、そんなあなたは、ほんとうにあわれで、みじめで、

貧しくて、盲目で、おまけに裸同然であることに気づいていないのです。 

 

18忠告しておきます。

真に豊かな者になるために、火で精錬された純金をわたしから買いなさい。

また、裸の恥をさらさないために、

しみ一つない清潔な白い衣をわたしから買いなさい。

また、見えるようになるために、わたしから目につける薬を買いなさい。 

 

19わたしは愛する者を絶えず訓練し、しかったり、懲らしめたりします。

ですから、もし神に対して熱い心を持たなければ、

わたしの罰を受けることになります。 

 

20見なさい。わたしは戸の外でたたいています。

その呼びかけに答えて戸を開ける人なら、

わたしは中に入って、だれとでも親しく語り合います。

そして、互いに楽しい時を過ごすのです。 

21勝利を得る者を、わたしと共に王座につかせましょう。

 

ちょうど、わたしが勝利を得た時、

父から、王座に共に座ることを許されたように。 

22聞く耳のある人は、聖霊が諸教会に言われることに耳を傾けなさい。」』」

(ヨハネの黙示録 3:15~22)

 

 

 

 

【まとめ】

    真の幸せ・祝福の道:自分の罪を知り、十字架を知る

              自分を捨て、神に従いつつ

              キリストの苦しみ・悲しみにあずかる者となる

 

    永遠の滅び・死の道:神に関心を持たず、この世での成功を求める

              人生を謳歌し 死後のことなどそっちのけで趣味に走る

 

 

真の祝福の道は、狭い門であり、この世で言う幸せとはイメージが全く違いますが、

この世の幸せとは、所詮いかに自分が贅沢できて自己満足出来るかにすぎず、

死ぬとすべてが水の泡になってしまう儚いものです。

しかも、この世が提供する楽しみは、神から離れている(この世に属する)人達が

作り上げたものであるため、間違った思考・反聖書で出来ています。

 

自分のために生きた人は、栄華を極めたソロモン王が虚しいと言ったように

人生を振り返った時、虚しさだけが残ります。

 

 

昔の預言者や使徒達は、心に痛みがあることで 道を踏み外さずに済み、

天国の市民になったのですから、まさに神の祝福の道だったのです。

人は、幸せで何の痛みも無いと、イエス・キリストを求めないし、

キリストの香りを振りまくことをしないからです。

 

 

いのちの道=狭き門というのは、自分を捨て神に従うこと・

救われていない人への痛みを担いながら歩むことだと私は思っています。

生きている以上、忙しい時にはストレスが溜まったりしますが、

世の人のように楽しみを求めてはならず、

自分の心を神の前にさらけ出して感謝することがクリスチャンの生き方です。

(心から神を求め 神を愛するなら、そのことが分かってきます)

 

肉によって歩まず、御霊によって歩めとは、

自己満足を捨て、神に従えということだと思っております。

 

 

13狭い門を通らなければ、天の国に入ることはできません。

人を滅びに導く道は広く、多くの人がその楽な道を進み、

広い門から入って行きます。 

14しかし、いのちに至る門は小さく、その道は狭いので、

ほんのわずかな人しか見つけることができません。

(マタイの福音書 7:13~14)

 

 

(同じ箇所の現代訳)

013:罪や欲望を持ったままでは

決して入ることのできない天国への狭い門を通って入りなさい。

 

滅びに至る門は大きく、その道は広く、

罪や欲望を持ったままでも十分入れます。

また、そこを通って行く人は沢山います。

 

014:しかし、救いに至る門は極めて小さく、その道は狭く、

罪や欲望を持ったままで、入ることはできません。

また、そこを通って行く人は決して多くはありません。

(マタイによるイエス・キリストの福音 7:13~14 現代訳)

 

 

雪の結晶

 

043また、自分をつまずかせるものがあれば、

たとえそれが自分にとってどんなに高価なものであっても、

それを取り除くだけの勇気が必要です。

 

たとえそれが手であっても、

045:足であっても、

047:目であっても、そうです。

永遠の祝福を受ける方が、

永遠の呪いを受けるより、はるかにましだからです。

048:その裁きは本当に恐ろしいものです。

 

049:人は皆、裁きの火によって

心の中に塩気を付けられなければなりません。

そうでないと、すぐに腐敗、堕落してしまうからです。

 

050:塩はよいものです。

しかし、塩が塩気を失ったら、

一体何によって塩気を取り戻すことができるでしょうか。

 

自分自身のうちに塩気を保ちなさい。

このように、自分には厳しくし、ほかの人とは平和を保ちなさい。」

(マルコによるイエス・キリストの福音 9:43~50 現代訳)