近年のキリスト教でよく見かけるようになったのが、

偽の愛を振りかざす行為です。

 

 

例を挙げると、

ある牧師が、聖書の御言葉をそのまま言い出したとします。

「偶像礼拝は罪である」など。

 

すると、反射的に怒りだす人が必ず出ます。

「神様は、人間を愛してくださって

人間がいかに弱いかも分かってらっしゃる。

だから、偶像礼拝は罪と言うなんて愛がない!!

そんなこと言うあなたは何様なんだ!?」

 

そして、その発言に

「そうだそうだ~!!」

と同意する者達がわらわら集まり、

「もう、こんな論争はやめにしませんか。

偶像を拝んでもいいじゃないですか。

人を裁くのは良くないことですよ。

あなたが偶像を否定さえしなかったら

こんなことにはならなかったんだから」

と、平和主義?ぽい人まで現れます。

 

そして、「神は愛だから

聖書中心ってのはよくないですよ。

どんな意見でも受け入れて

みんな仲良くしたらいいじゃないですか」

とまとめ出し、多くの人が賛同します。

 

 

聖書に書かれていることをそのまま言っただけで

クリスチャン達(自称クリ)から叩かれる時代です。

しかも、裁くなと言いつつ、

自分達はオリジナル理論の自説を振りかざし

相手を裁いていることに気づいていません。

自分達はただの平和主義者・博愛主義者だと思い込んでいます。

 

 

ですが、実際は、

神は愛なんだから 偶像を拝もうが

天国に入れることを認めろよ

という嘘の押し付けをしています。

 

また、相手に愛がないと一方的に決めつけ、

裁いてもいます。

人に裁くなと言っておきながら、

自分達は、意見の押し付けも

裁くのも何でもアリというわけです。

 

 

しかも、そう言う彼らに対して、

「じゃあ、あなたの言うことが聖書のどこに書いてあるの?

どこに根拠があるの?」と聞いても

ぜんぜん答えられずに逃げますが、

それでも、自分の言葉は

あたかも絶対的な神のご意思であるかのように主張します。

 

 

彼らの共通点は、

罪のままの自分の生き方を変えたくないことです。

なので、変わらなくても天国に入りたい∼

という願望がそのまま信仰になっており、

自分は 神から離れた生き方を変えたいとも思わないけど、

神は問答無用で受け入れろよ~という

あまりにも身勝手で酷過ぎる精神の教えを

信じています。

 

聖書にはない「別のイエス像」を信じ、

神の愛、神の愛~と魔法の言葉のように叫んでいるのです。

(聖書からズレた神を信仰=クリスチャンではない)

 

 

この教えを、もし、仮に、

過去いじめたことがある人に向かって教え、

「もう罪赦されたから

そんな過去気にしなくていいよ~・

若い時に過ちはつきもの、

神は愛なんだから

そのままのあなたでいいんですよ∼」

といったセリフを

いじめた人が聞いて慰められ、喜んでいるのを

その被害者の方が見たらどう思うでしょうか?

 

加害者側に寄り添った教えであり、

被害者を無かったことにする残酷な教えだと思うでしょう。

 

 

悪魔からでた教えなので、

矛盾と残酷性でできているからです。

 

 

こういう教えを信じる人が、

はたして、過去の自分の性格や心の状態から

変われているでしょうか?

 

自分を顧みていない以上、

むしろ、ますますズルくなって、

陰湿になっているだけでしょう。

 

 

ちなみに、「人を裁くな」という

使いどころを間違えているセリフは、

ソドムとゴモラの住民も言っていたものです。

忠告を退け、悔い改めなかったその結果は

滅びでした。

 

 

彼らは言った、「退け」。

また言った、「この男は渡ってきたよそ者であるのに、

いつも、さばきびとになろうとする。

それで、われわれは彼らに加えるよりも、

おまえに多くの害を加えよう」。

彼らはロトの身に激しく迫り、

進み寄って戸を破ろうとした。

(創世記 19:9 口語訳)

 

 

 

ですが、当人は、

自分はイエス様を信じてると告白してるから大丈夫・

死んだら天国に行けるとのうのうしています。

 

都合よく聖書の一部を取り上げただけの

偽の教えを信奉することによって、

別のイエス、すなわち偽イエスを信じていること、

偽イエス=悪魔に騙されていることにすら

気づいていないのです。

 

 

聖書が、イエス様を指し示しているのに、

その肝心な聖書の御言葉に敵意をむき出しにしているのが

悪魔に属する者となり支配されている何よりの証拠です。

 

(聖書は、基本的にリビングバイブル:改訂新版(いのちのことば社発行)より引用)

39あなたがたは、永遠のいのちを見つけようと

熱心に聖書を調べています。

その聖書がわたしを指し示しているのです。 

 

40それなのにあなたがたは、

わたしのところに来ようとはしません。

だから永遠のいのちを受けることができないのです。 

(ヨハネの福音書 5:39~40)

 

 

雪の結晶

 

44あなたがたの父は悪魔です。

悪魔の子が悪魔の悪い行いを喜んでまねても、

不思議ではありません。

 

悪魔は初めから人殺しで、

真理をきらっています。

悪魔のうちには真理の一かけらもありません。

悪魔がうそをつくのは当然です。

うそつきの大もとなのですから。 

 

45だから、わたしが真理を語っても

あなたがたが信じないのはあたりまえです。 

 

46あなたがたのうち、

だれが、たった一つでもわたしの罪を指摘できますか。

できないでしょう。

真理を話しているのに、なぜわたしを信じないのですか。

 

47神の子どもならだれでも、

神のおっしゃることを喜んで聞くはずです。

あなたがたが聞き従わないのは、

神の子どもではないからです。

(ヨハネの福音書 8:44~47)

 

 

 

口先だけで信仰告白をしても、従わない人は、

実際には、イエス様を愛していないことの現れです。

 

本当に信じる気持ちがあり

愛しているなら、

15わたしを愛するなら、

わたしの戒めを守りなさい。

(ヨハネの福音書 14:15)

との御言葉通り、聖書に耳を傾け、

守ろうとするはずだからです。

 

 

 

私がカルトに接してきた過去から分かったこと、

それは、自分の欲中心に考えているので、

思考が曇っており、

その曇った思考で

御言葉を曲解してしまうばかりか、

日常生活においても

人の言葉を曲解してしまうことです。

 

なので、職場でも家庭でも、

自分では気づかないだけで

争いの火種になったり、

揉め事を起こしてしまったりなどしてしまいます。

 

そのうえ、自分が何を信じているのかさえ分かっていない、

何が真理・真実かも分からないままの状態にあります。

 

 

ですが、本人に自覚はなくても、

カルトに属さなくても、

偽イエスという虚像(嘘)を信じ続けることは、

精神に悪影響をもたらします。

 

 

神をしもべとし、

自分の思いが神になっているからです。

(天国には行きたいけど、神に従いたくない。

わがままな自分のままで救われたいという考え)

 

そのため、自分はクリスチャンと言いながら

聖書の御言葉を話す人に激しい敵意を向け

寄ってたかって攻撃できるようになります。

 

 

現在流行中(?)の偽の多様性(LGBTQなど)にも

似ていると言えるでしょう。

ーー自分達の主張・ワガママを通すために、

気持ち次第で 好きな性別のトイレに入れるとし、

それに反対した人を「差別だ」と攻撃。。

トイレの共有によって、

女性や子供に被害が及ぶ可能性には目をつぶり

被害が存在しないかのように扱う。。などーー

自分達の欲を貫きたいがために

多くの人々を巻き込みます。

 

そこには、何が正しいかの指針は存在せず、

事実を否定してでも
自己満足の追及のみがあります。

 

 

3なぜなら、人々が真理のことばを耳ざわりだと敬遠し、

自分につごうの良い話をする教師を求めて

歩き回る時代が来るからです。 

4彼らは聖書の教えに耳を傾けようとせず、

間違った教えにしっぽを振ってついて行くのです。

 

5ですから、危機感をもって目を覚まし、

警戒していなさい。

主のために受ける苦しみを、恐れてはいけません。

なすべきことを十分になして、

他の人たちをキリストへ導きなさい。

(テモテへの手紙Ⅱ 4:3~5)

 

 

【同じ箇所の口語訳】

3 人々が健全な教に耐えられなくなり、

耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、

自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、

4 そして、真理からは耳をそむけて、

作り話の方にそれていく時が来るであろう。

 

しかし、あなたは、何事にも慎み、苦難を忍び、

伝道者のわざをなし、自分の務を全うしなさい。

(テモテへの手紙Ⅱ 4:3~4 口語訳)

 

 

雪の結晶

 

1これらのことを話したのは、

これからどんなことが起こっても、

あなたがたがくじけないためです。 

 

2会堂から追放され、

いのちまでつけねらわれる身になることを覚悟しなさい。

事実、あなたがたを殺すことで神への奉仕を果たすのだと、

人々がとんでもない思い違いをする時が来ます。 

 

3父をも、わたしをも知らない人々のやりそうなことです。

4いいですか。

この警告をしっかり心にとめておきなさい。

迫害が現実に起きた時、あわてふためかないですむようにしなさい。

(ヨハネの福音書 16:1~4)

 

 

 

それだけではありません。

偽教義を、偽イエスを信じることは、

本物のイエス様に対して

愛がない・悪いという虚像を抱くようになります。

(真実を知らないくせに一方的に悪く思い込む)

恐ろしいことです。

 

 

本物と偽物は相容れることがありませんし、

聖書はすべて、神の霊感によるもの

(テモテへの手紙Ⅱ 3:16 新改訳第三版)

であるため、聖書否定は神否定に繋がるからです。

すなわち、聖書嫌いは、神の御心なんて嫌いということになります。

 

ある人が、聖書を否定し噛みつくとき、

「いや、神は愛なんだからそんなこと言うな。

裁くな。裁くなんて何者なんだ」と自己主張したつもりが、

実際は、神様に向かって暴言を吐き、

神様を理由もなく憎み、

神様を悪者扱いしているのです。

 

 

まさに、1タラントのしもべと同じ状態に陥ってます。

 

1タラントのしもべは、

自分が怠惰であることは置いといて、

主人は悪い人だと自分なりの虚像を作って決めつけ、

従わない自分勝手な生活を送りました。

 

 

24-25最後に、一タラント受け取った男が進み出て言いました。

『ご主人様。

あなたはたいそうひどい方でございます。

私は前々からそれを知っておりましたから、

せっかくお金をもうけても、

あなたが取り上げてしまうのではないかと、

こわくてしかたがなかったのです。

それで、あなたのお金を土の中に隠しておきました。

はい、これがそのお金でございます。』

(マタイの福音書 25:24~25)

 

 

その結果は、

与えられたわずかなものさえ取り上げられ、

(神に仕えるために与えられた様々な才能など)

外の暗闇(地獄)に放り出されます。

 

まさか、聖書通りに裁かれる時になって、

こういうつもりではなかった、

私は弱いから、知らなかった∼

で通用すると思っているのでしょうか?

 

しかも自分の発言によって人を惑わし、

人が悔い改める機会・

新しく生まれる機会を奪った責任は

どう取るんでしょうか。

 

 

 

このように、神を知っていながら、

あるいは、神の御心を知る機会が与えられていながら、

(キリスト教に入った以上、

不信者よりも聖書を読む敷居は 非常に低い)

神を無視し続ける人・生き方を変えようとしない

自称・偽クリスチャン達の結末は、

信じなかった人達より厳しい裁きを受けることになります。

 

イエス様を知っていながら罪の生活を送る人のことを、

聖書では、縁を切るべき人・

神を知らない人よりも悪い・

21キリストを知ったあとで聖なる戒めに背くくらいなら、

キリストについて何も知らなかったほうが、

彼らにとってよかったのです。

(ペテロの手紙Ⅱ 2:17~22)

と忠告しているからです。

 

当たり前ですが、そのままでは地獄です。

 

 

28 また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、

神は彼らを良くない思いに引き渡され、

そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。

29 彼らは、あらゆる不義と悪と

むさぼりと悪意とに満ちた者、

ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、

陰口を言う者、

30 そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、

高ぶる者、大言壮語する者、

悪事をたくらむ者、親に逆らう者、

31 わきまえのない者、約束を破る者、

情け知らずの者、慈愛のない者です。

32 彼らは、そのようなことを行えば、

死罪に当たるという神の定めを知っていながら、

それを行っているだけでなく、

それを行う者に心から同意しているのです。

(ローマ人への手紙 1:28~32 新改訳第三版)

 

 

 

 

偽教師は、人の命なんか気にも留めないので、

「神の裁きやら地獄などで人を怖がらせるのはよくない。

人には仕事やら家庭やらいろんな事情があるから、

神の教えを守ることは無理なことぐらい

神様は分かって下さる。

恵みで天国に行けるからね」と言います。

 

こうして偽の安心感を与えて

人に、罪の生き方のままでいいよ~

とそそのかし、

死後のことを考えさせようとしません。

(人は、誰もが悔い改めるべきなのに

邪魔をしている)

 

 

 

偽教師の薄っぺらい愛の話に感動して

キリスト教に入った人もいらっしゃるでしょうが、

その話に感動して留まっている時点で

悔い改めはいつまでも起きません。

 

もちろん、信仰の入り口にも立ってないので、

間違った方向に助長されることはあっても、

信仰が育つことはありません。

 

 

 

一方、神に召命された正しい牧師は、

聖書通り、神の裁きを伝えます。

 

神を知らない時の歩みは、

誰もが罪の生き方であり、

その生き方のままでは滅びること、

死後の永遠を考えて

神に心を向け立ち返る必要があることを伝えます。

 

「神様は、どんな罪人でも受け入れてくださいますが、

そのままのあなたではダメ、

罪赦されたと思って 神様を舐めて

以前と同じ罪の生き方のままなら地獄に行くから。

自分勝手に生きてきたことを悔い改め、

心から変えられなさい」と教えるでしょう。

 

 

本物と偽物、その違いは雲泥の差です。

 

 

17このような偽教師は、

干上がった泉、風に吹き払われる霧のように、

全く内実がありません。

彼らを待っているのは暗闇です。 

 

18彼らは臆面もなく、

やっとの思いで罪の生活から足を洗った人たちを、

肉の欲望や誘惑によって、

もう一度罪に誘い込もうとしているのです。 

 

19彼らはこう言います。

「善人になったからといって、救われるとは限らないなら、

いっそのこと、悪いことをしたほうがましじゃないか。

やりたいことをやるのが自由というものだ。」

このように、彼らは「自由」を教えながら、

自分自身が罪と滅びの奴隷になっているのです。

何かに支配されている人は、

その奴隷なのです。

 

20主であり救い主であるイエス・キリストを知り、

この世の悪い生活からのがれた人が、

またもとの罪の生活に舞い戻り、

その奴隷となるなら、

その状態は以前よりもっと悪くなるでしょう。 

 

21キリストを知ったあとで聖なる戒めに背くくらいなら、

キリストについて何も知らなかったほうが、

彼らにとってよかったのです。 

 

22古いことわざに、

「犬は自分が吐いた物をなめる」

「豚はいくら洗ってやっても、

泥の中をころげ回る」とありますが、

まさに罪の生活に舞い戻る人々のことではありませんか。

(ペテロの手紙Ⅱ 2:17~22)

 

 

 

クリスチャンとは、

イエス様の言葉に従う人=聖書の御言葉に従う人のことです。

死ぬまで完璧にはなれなくても、

聖書を全部読み続け、

きよい者へと変えてくださいと神様に祈り、

少しずつ変えられ、

日々、神様と交わり続けている人です。

 

聖書を読む気さえない人、

聖書は良い言葉だけど どうせ人間の力では守れないからと

神に祈り求めたことさえない人は、

信仰があるとは言えません。

 

 

 

ですが、多くの人が

安易で楽な偽教師の言葉に

愛があると感動して従ってしまうのです。

 

 

次回は、本物の教えとは耳が痛いもの・

健全な恐れを持たせるものであることを

述べようと思います。

 

 

16神の霊感によって書かれた聖書は、

何が真理であり、何が悪であるかをよく教えてくれます。

また、私たちの生活をまっすぐにし、

正しいことを行う力を与えてくれます。

 

17こうして神は、私たちをあらゆる点で整え、

どんな良い働きをも行う力を、十分に与えてくださるのです。

(テモテへの手紙Ⅱ 3:16~17)