一度救われたら、何があっても絶対に天国に行けるのでしょうか?

 

 

答えは、最後まで戦いであり、死ぬまで自分の選択が求められる...です。

最後まで固く信仰を保つよう、聖書は何度も警告しているからです。

 

 

(聖書は、基本的にリビングバイブル:改訂新版(いのちのことば社発行)より引用)

11テモテよ。あなたは神に仕える者です。

ですから、これらすべての悪から逃れて、

正しく良いことに熱心に励みなさい。

 

神を信頼し、人を愛し、忍耐強く、ものやわらかな態度を身につけ、 

12信仰のために戦い続けなさい。

神から与えられた永遠のいのちを、しっかり握っていなさい。

(テモテへの手紙Ⅰ 6:11~12)

 

 

 

一度救われたら 何があっても絶対に大丈夫であるとすれば、

神から離れないようにという警告を わざわざ書く必要がありません。

しかし、こうした警告が 何回も書かれているということは、

クリスチャンになったはずなのに堕落していった人々を

パウロ達は見てきたからでしょう。

(へブル人への手紙には、厳粛な警告が書かれています)

 

 

どんなに毎週礼拝に参加しようが、

神の愛(十字架の贖い)が解らなければ、表面上だけの儀式であり、

自己満足だけの信仰生活になって 道を踏み外してしまいます。

 

12皆さん。心が悪に染まって信仰をなくし、

生ける神から離れることがないように、自分の心を見張りなさい。 

 

13まだ時間があるうちに、日々、互いにこのことを確かめ合いなさい。

そうすれば、罪に惑わされて神に心を閉ざす人は一人も出ないでしょう。 

 

14もし私たちが、初めてキリストを信じた時と同じ気持ちで神に信頼し、

最後まで忠実であれば、キリストにある祝福を受けることができるのです。 

 

15ですから、今この時がかんじんなのです。

次の警告を、片時も忘れてはなりません。

「今日、語られる神の声を聞いたなら、神の怒りを招いた時のように、

心をかたくなにしてはいけない。」(詩篇95・7-8) 

 

16神の声を聞きながら反抗した人たちとは、いったいだれでしょう。

指導者モーセに率いられてエジプトを出たイスラエル人すべてです。 

17四十年もの間、神の怒りを買ったのは、いったいだれでしたか。

罪のために荒野で死に果てた、あのイスラエル人ではありませんか。 

 

18神が誓って約束の地に入らせないと断言されたのは、

だれに対してでしたか。

従うことを拒んだ、あの人たち全員です。 

19彼らが約束の地に入れなかったのは、神を信頼しなかったからです。

(へブル人への手紙 3:12~19)

 

 

雪の結晶

 

9-10主は悪者の行いを嫌い、

正しく生きようとする人を愛します。

しかし途中で心変わりしたら、

きびしい罰が待っています。

その罰を受け入れなければ死ぬだけです。

 

11地獄の深淵まで知っている主には、

人の心など手に取るようにわかります。

(箴言 15:9~10)

 

雪の結晶

005:そして、屋上で天体を礼拝する者、
主を礼拝しながらモレクの偶像に仕える者、
006:主に従おうとしない者、主を求めず、
主の御心を求めない者をすべて断ち滅ぼす。
(ゼパニヤの預言 1:5~6 現代訳)

 

雪の結晶

 

4-6あなたがたが、いったん福音(イエス・キリストによる救いの知らせ)

の光に浴し、天からの恵みを味わい、聖霊を頂く特権を与えられ、

また、神のすばらしいことばと来るべき世界の力を知ったうえで、

なお神に背を向けるとしたら、もう主に立ち返ることはできません。

 

それは、神のひとり子をもう一度十字架につけ、

人前でさらしものにすることだからです。

そんな人は、もはや悔い改めようがありません。

 

 

7十分に雨を吸い込んでよく潤った畑が、農夫に大豊作をもたらしたとしたら、

その畑は神の祝福をむだにしなかったことになります。 

8しかし、いばらやあざみばかりを生えさせるなら、

その畑は役立たずとして焼き払われてしまいます。

(へブル人への手紙 6:4~8)

 

 

雪の結晶

 

26もし罪の赦しの真理を知ってから、

救い主を拒否して、罪を犯し続ける人がいるとしたら、

その人はキリストの死によっても赦されません。

もはや、その罪を消す方法はどこにもないのです。

 

27その人には、敵対する者を一人残らず焼き尽くす、

神の激しい怒りと恐ろしい刑罰が待っているだけです。 

28モーセの律法に従わなかった者たちは、

その罪に対する二、三人の証言が得られれば、死刑に処せられました。 

 

29それならなおさら、神の御子を踏みつけ、

罪をきよめるキリストの血を汚れたものとし、

神のあわれみを人々にもたらす聖霊を拒絶する者に、

どんなに恐ろしい刑罰が下るか、よく考えてみなさい。 

 

30私たちは、「正義はわたしのものである。復讐はわたしがする」

(申命32・35)、また、「主がその民をさばかれる」(申命32・36)

と言われた方をよく知っています。 

31生ける神の手の中に陥ることは、なんと恐ろしいことでしょう。

 

 

32あなたがたは、初めてキリストを知った時の祝福された日々を、

いつまでも忘れないようにしなさい。

また、死ぬほどの苦しみに会いながらも、

主と共に戦い抜いてきたことを、いつも心にとめていなさい。

(へブル人への手紙 10:26~32)

 

 

雪の結晶

 

11悪魔のどんな策略にも立ち向かえるように、

神のすべての武具で身をかためなさい。 

12戦う相手は、血肉を持った人間ではなく、肉体のない者たちです。

すなわち、目に見えない世界の支配者たち、

この世を支配する暗闇の大王たち、それに、天にいる無数の悪霊です。

 

 

13ですから、いつどんな攻撃にも対抗できるように、

神のすべての武具を用いなさい。

そうすれば、すべてが終わった時も、なおしっかり立てるでしょう。 

 

14しかし、そのためには、腰に真理の帯をしめ、

神の承認という胸当てをつけなければなりません。 

15次に、平和の福音を伝えるために直ちに出発できる、

丈夫なくつをはきなさい。 

16どんな戦いにも、守りの盾として必要なのは信仰です。

これがあれば、サタンが射かけてくる火矢を消し止めることができます。 

17また、救いのかぶとをかぶり、

御霊の下さる剣である神のことばを手にしなさい。

 

 

18どんな時にも祈りなさい。

どんなことでも、聖霊の考えにそって神にひたすら願い求めなさい。

各地に散っているすべてのクリスチャンのために、熱心に祈り続けなさい。 

(エペソ人への手紙 6:11~18)

 

 

 

クリスチャンになったら もう安心だという考えは、この世から出た甘い罠です。

あのパウロでさえ、生涯かけて戦い抜いたというのに、

自分達だけは、一度救われたら 何をやってもずっと救われていて

 そのまま天国に入れるなんて思っていませんか。

 

6こう言うのも、私の最期が迫っているからです。

いつまでもあなたを助け続けるわけにはいきません。

もうすぐ天国へ旅立ちます。 

 

7主のために、長い間困難な戦いを続けてきた私は、

主への真実を守り通しました。

しかし今、ついに、休む時が来たのです。 

 

8天では栄冠が待っています。

正しい裁判官である主が再び来られる日に頂く冠です。

もちろん私だけにではなく、主を熱心に待ち望む人々全員に

授けられるのです。

(テモテへの手紙Ⅱ 4:6~8)

 

 

 

確かに、信仰の道から外れないように、

神様は 苦難や試練を通して 人を練りきよめられます。

ですが、神は、人の自由意思を尊重しておられるので、

この世で楽をしたい...と自分の好きな道を歩む人には 警告を与えるものの、

選択は あくまでもその人自身にあるのです。

 

 

子供でも、どうせ自分は子供だし 未熟で完璧にできないからといって

やる気もなく 好き放題 遊び怠けているのと、

完璧にはできなくても 心から真剣に熱心に取り組んでいる子供、

どちらが、将来性があるでしょうか?

 

また、今まで家族を大事にしてこなかった人は、家族との関係が出来ておらず、

晩年 孤独になるなど、そのツケを払わされるのなら、

なおさら 神との関係を築いて来なかった人はどうなってしまうのか、、、

永遠が かかっているだけに末恐ろしいことです。

 

 

 

アサ王やヨアシュ王は、まさに堕落した信仰者の実例だと言えます。

彼らは、前半は 敬虔な信仰者として歩んでいました。

ですが、神様のおかげで順調に物事が進んでくると思い上がり、

信仰の道から転がり落ちてしまいました。

その結果、地獄行きの一人として 今も苦しみ続けています。

 

彼らが、もし、経済力も何も無い苦労ばかりしている王様だったら、

信仰の道から外れなかったかもしれません。

このことは、順調な時こそ安心ではなく、

気をつけなければならないことを意味しています。

 

 

救いの確証があろうと、聖書に書かれているような奇跡を体験しようと

異言などの賜物に恵まれていたとしても、

それらは 絶対に天国に行ける免罪符ではありません。

 

クリスチャンと言いながら、聖書を読まず御言葉を知らない人・

(神の存在を認知しているだけで、神を知ろうとしない人)

祈りの時間を少しも作らず神に祈らない人(面倒臭がって神との交わりをしない人)は

神との関係を築くより 自分の楽しみを追い求めた(肉によって歩むこと)ので、

年月が経てば経つほど 心が鈍くなり、

神を知らない人よりも質が悪くなって 一気に堕落してしまいます。

 

その結果、信仰が育たないばかりか、

自分を肯定してくれる偽教義に惹かれて カルト脳化し

ちゃんと神を信じることすら出来なくなるでしょう。

 

 

 

 

間違った永久保障の教えはーー

救いに限らず他にも見られるので要注意です。

 

異言や預言などの霊の賜物についての間違った教えや

(一度出たら 生涯出続ける・神は 一度与えたものは絶対に取り上げないというもの)

イエス様の血を悪用した教えなどの

(イエス様の血は、過去の罪だけでなく未来の罪も赦して下さるから

何をやっても天国に行ける説など)

偽教義の共通点は、自分が選択する事実を無視して 

神のせいにすることです。

 

 

神は 取り上げられないのだとしたら、

サウル王は 王位から退けられることはなかったはずです。

 

主は、今日、あなたからこのようにイスラエルの王国を取り上げて、

さらにすぐれた人物にお渡しになった。

(サムエル記Ⅰ 15:28)

 

 

そもそも、賜物を自分のものと思ってる時点で間違いです。

 

賜物は、あくまでも神の御心に沿った働きが出来るように与えられた

神様からの借り物に過ぎません。

 

 

夫の異言についても、一時的なものでした。

その時 必要だったから 神様が夫の口から異言が出るようにしてくださっただけです。

また、夫が 霊の賜物にもともと関心も無く、

思い上がらないタイプの人間であることも、神が与えられた理由に入るでしょう。

 

なので、その人の考え方に応じて、神様が御心のままに与えてくださるのであって、

神の道から逸れた人に そのまま与え続けられることはありません。

 

 

さらに、同じく永久保障をうたった間違った教えに、

ユダヤをはじめとするイスラエル12部族の血筋にこだわるというのがあります。

 

カルト・異端に多い教えで、

なぜか 自分こそが散らされたイスラエル民族の血筋である選ばれし者だと

口を揃えて主張しているわけです。

こういった教えも、血筋さえあれば 祝福に満たされ

絶対に天国に入れるという偽りの保障から来ています。

また、自分は特別だ∼という思い上がり・選民意識も含んでいます。

 

 

当たり前ですが、人種や血筋で 信仰が出来上がるのではありません。

信仰とは、自分と神との交わりであり、神に聞き従うことです。

血筋だけで信仰が育つなら、自分の心と向き合って戦う必要もありませんから

それほど楽なことはないと言えます。

 

そのため、親がクリスチャンというだけでは、

その子供に信仰がある保証にはならず、救わているとは言えません。

 

ユダ王国の歴代の王達を見ても、神に立ち返ったネブカデネザルの子孫であっても、

父親が信仰深くても、その子供・孫は 主を捨てて異教に走ったりしていますから、

信仰は あくまでも自分と主との関係であって、受け継ぐものではないです。

 

 

20気をつけなさい。

ユダヤ人のその枝が折り取られたのは神を信じなかったからであり、

あなたがたがつぎ木されたのは、ただ神を信じたからです。

 

このことを忘れないようにしなさい。

高ぶってはいけません。むしろ、謙虚になって神を恐れなさい。 

 

21もし神が台木の枝を惜しまなかったとすれば、

ましてや、神をもはや信じないあなたがたを

惜しむことはなさらないでしょう。

 

 

22神がどんなに恵み深く、また、どんなにきびしい方かを考えてみなさい。

神は不従順な者にはきびしく、神を愛し、信じる者には恵み深いお方です。

もし神を愛さず、信じないなら、

あなたがたもまた切り取られてしまうのです。 

 

23一方、ユダヤ人が不信仰な生き方をやめて神に立ち返るなら、

神はまた、もとの木についでくださいます。

神には、そうする力があるのです。 

 

24あなたがたは野生のオリーブの木の一部として、

神から遠く離れた存在でしたが、

神は受け入れ、ご自分の良い木についでくださったのです。

とすれば、もともとその木の枝であったユダヤ人は、

もっとたやすく神の台木につぎ木されるのではないでしょうか。

(ローマ人への手紙 11:20~24)

 

 

雪の結晶

 

28今のところ、ユダヤ人の多くは福音に敵対し、それを憎んでいます。

しかし、そのことはかえって、あなたがたには益となりました。

というのは、神がその救いの賜物を

あなたがた外国人に与えてくださることになったからです。

 

しかし彼らユダヤ人は、神がアブラハム、イサク、ヤコブに

お与えになった約束のゆえに、今でも愛されているのです。 

29神の賜物と招きは決して取り消されないからです。 

 

30あなたがたは以前は神に逆らっていましたが、

ユダヤ人が神の賜物を拒んだので

代わりに神のあわれみを受けることになりました。 

 

31そして今、ユダヤ人は神に逆らっていますが、いつの日か彼らもまた、

あなたがたの受けている慈しみとあわれみを共に受けるようになるのです。 

(ローマ人への手紙 11:28~31)

 

 

 

 

人は 誰もが罪人であるため、そのまま(生まれつきの肉の性質のまま)では

決して 天の御国には入れません。

 

エスカレーター式で御国に入れるとの間違った教えは、

信じた人に安易な気持ちを起こさせ、

神に従わなくても大丈夫・御言葉よりも自分の思いのままに生きてもいい・

罪を悔い改めなくてもいい∼という滅びの道を選ばせます。

 

 

こうした永久保障の教えが生まれる理由として、

自分(欲)を捨てたくはないけど、天国には入りたいという気持ちはあるので、

何をやっても絶対に天国に行ける安心と保障が欲しいのでしょう。

 

ですが、クリスチャンになるだけで 自分を捨てなくても何もしなくてもいいのなら、

権力のある人が その地位を利用し、自分だけは特別で何をやっても捕まらない・

許されるというのと同じ考えだと言えます。

まさに現代版・免罪符になってしまっているのです。

 

 

こういった教えを信じている限り、自分を顧みないので、

最後まで信仰に固く立ち続けることはできないでしょう。

 

神の御言葉に聞き従うからこそ、あらゆる試練や誘惑から守られるのであって、

神の言葉を聞きもせず知りもしない人・耳障りのいい人間の教えに従っている人は

逆に 神からの警告に反発し、自分から捨て去ることでしょう。

 

 

 

神様は、その人の生涯をかけて、

心からきよい者(キリストに似た者)に変えようとご計画しておられます。

 

ですが、神に無関心なのに どうやって変わるのでしょうか?

その人が イエス様を知りたいと願ってもないのに、

神様が強制的に変えてくださることは まずありません。

 

自分が追い求めない限り、

キリストに似た者に変わることは 決してあり得ないのです。

 

 

16しかし、だれでも罪に背を向け、主のほうに向く時、

その覆いは取り除かれます。 

 

17主は、いのちを与えてくださる御霊です。

御霊のおられるところには自由があります。 

 

18私たちには顔の覆いがありません。

鏡のように、主の栄光をはっきり映すことができます。

そして、主の御霊が私たちのうちで働いてくださるにつれ、

私たちはますます主に似た者にされていくのです。

(コリント人への手紙Ⅱ 3:16~18)

 

 

 

神との関係を蔑ろにし、自分を喜ばせることを求めた結果は、必ず刈り取ります。

死ぬまで肉を持っている以上、罪人であることに変わりはなくとも、

神様を主人として 日々誠心誠意を尽くして歩み、

間違いに気づいたらすぐに修正するなど、

死ぬその時まで選択が求め続けられているのです。

 

 

59-60私は、誤った方向に進んでいる自分に気づき、

慌てて引き返し、神のもとに駆け戻りました。

 

61悪者どもは、私の首に綱を巻き、

罪に引きずり込もうとしました。

しかし、私はあなたのおきてに守られています。

(詩篇 119:59~61)

 

雪の結晶

 

18人々の目を開き、自分のほんとうの姿に気づかせ、

罪を悔い改め、悪魔の暗闇から出て、神の光の中に生きるようにするために。

わたしを信じる信仰によって、彼らは罪の赦しを受け、

きよくされたすべての人たちと共に、神の相続財産を受けるようになる。』

 

 

19それでアグリッパ王よ。私はこの天からの幻に従ったのでございます。 

20ダマスコを手はじめに、エルサレム、ユダヤ全国、さらに外国人にも、

すべての人が罪を捨てて神に立ち返り、

それを良い行いで示さなければならない、と宣べ伝えてきました。

(使徒の働き 26:18~20)

 

 

 

 

救い=神様を主人としてついていくこと

原本のギリシャ語には、信じる=従う意味が含まれているそうです。

日本語の信じるのような「本当だと思う」といった認知程度の意味ではありません。

つまり、救われてからが 本当の意味での人生のスタート・始まりです。

 

 

天国に入る道は狭く、勝利を得る者はわずかです。

次回は、その勝利を得る者になる秘訣を書こうと思います。

 

 

16ですから、世間の評判や、外見の良し悪しで、

人を評価するのはやめなさい。

以前、私は、その誤った考え方で、

キリストのことを自分と同じ人間とみなしていました。

しかし今では、その考えは一変しました。 

 

17だれでもクリスチャンになると、内側が全く新しくされます。

もはや今までと同じ人間ではありません。

新しい人生が始まったのです。 

 

18この新しい出来事はすべて神から出ています。

神様は、キリスト・イエスの働きによって、

私たちをご自分のもとに連れ戻してくださいました。

そして、この恵みによる神との和解を、すべての人に勧める特権をも、

私たちに与えてくださったのです。 

 

19つまり、キリストによって、この世をご自分と和解させ、

その罪を数え立てずに、かえって帳消しにしてくださったのです。

これが、人々に伝えるようにと私たちにゆだねられた、

すばらしい知らせです。

(コリント人への手紙Ⅱ 5:16~19)

 

 

雪の結晶

 

1こういうわけで、今は、キリスト・イエスに属する人が

罪の宣告を受けることはありません。 

2なぜなら、いのちを与える御霊の力が、

罪と死の悪循環から解放してくれたからです。 

 

3律法を知っているだけでは、罪の支配からは救い出されません。

私たちはそれを守ることもできないし、実際守ってもいないからです。

 

ところが、神は私たちを救うために、別の計画を実行に移されました。

すなわち、神のひとり子を、私たちと同じ体を持つ者としてーー

ただ、私たちのような罪の性質を持たない点では異なりますがーー

世にお遣わしになったのです。

そして彼を、私たちの罪のためのいけにえとして、

私たちをがんじがらめにする罪の支配を打ち破られたのです。 

 

4ですから今、私たちは聖霊に従って歩むなら、

律法に従うことができるのです。

そしてもはや、古い罪の性質の言いなりになることはありません。 

 

5罪の性質に従っている人は自分を喜ばせようとしますが、

聖霊に従って歩む人は、神に喜んでいただこうとします。 

6聖霊に従って歩むならいのちと平安があり、

古い罪の性質に従って歩むなら死が待っています。 

 

7古い性質は神に敵対するからです。

古い性質が律法に従ったことは一度もなかったし、

これからも決してありません。 

8ですから、なおも古い自我に支配されて欲望に従い続ける者は、

決して神をお喜ばせすることができないのです。

(ローマ人への手紙 8:1~8)

 

 

 

1 したがって、キリスト・イエスの内にあって、
肉にしたがって歩まず御霊にしたがって歩んでいる人たちに対しては、

今や、一つの有罪判決もないのです。

(ローマ人への使徒パウロの手紙 8:1~8 TR訳)

 

 

雪の結晶

 

25神はキリスト・イエスを遣わして、私たちの罪に対する償いをさせ、

私たちへの怒りをとどめてくださいました。

神は、私たちをご自分の怒りから救い出すための手段として、

キリストの血と私たちの信仰とを用いられました。

たとえ、それまでの時代に罪を犯した者たちを罰せられなかったとしても、

神は完全に公正であられるのです。

キリストが来て人々の罪を取り除く時を、神は待ち望んでおられました。 

 

26そして今日も、神はこの同じ方法で罪人を受け入れてくださいます。

イエスが彼らを、義と認めてくださるためです。

 

 

しかし、このように罪を犯した者を赦し、無罪を宣告するのは、

神の公正なやり方に反するのでしょうか。

いいえ、そんなことはありません。

なぜなら彼らが、自分の罪を帳消しにしてくださったイエスを信じた

という事実に基づいて、神はそうなさるからです。 

 

27それでは、救われるために、

私たちは何か誇れるようなことをしたでしょうか。

何もしていません。なぜでしょう。

私たちは自分の善行によって無罪とされるのではないからです。

 

それは、キリストが成し遂げてくださったことと、

キリストに対する私たちの信仰に基づいているのです。 

28つまり、私たちが救われるのは、

キリストを信じる信仰だけによるのであって、

善行によるのではないのですから。 

 

29神はこの方法で、ユダヤ人だけをお救いになるのでしょうか。

いいえ、それ以外の外国人も、

同じようにして神のもとに行くことができます。 

30神はすべての人を全く平等に扱われます。

ユダヤ人であろうと外国人であろうと、

人はみな、信仰によって救われて正しい者とされるのです。

 

 

31それでは、信仰によって救われるのなら、

もはや律法に従う必要はないことになるのでしょうか。

いや、全く違います。

私たちはイエスを信じてこそ、

ほんとうに神の命令に従うことができるのです。

(ローマ人への手紙 3:25~31)

 

 

雪の結晶

 

1わたしはまことのぶどうの木、わたしの父はぶどう園の農夫です。 

2父は、実のならない枝をみな切り落とし、

実のなる枝はもっとたくさんなるように、余分な枝を整理なさるのです。 

 

3父は、すでにあなたがたの枝を整理し、

きれいに手入れをすまされたのです。 

 

4ですから、わたしのうちに生きるよう心がけなさい。

またわたしが、あなたがたのうちに生きられるようにしなさい。

枝は幹につながっていなければ、実を結べないでしょう。

同じようにあなたがたも、わたしから離れたら、実を結ぶことはできません。 

 

5わたしはぶどうの木で、あなたがたはその枝です。

人がわたしのうちに生き、わたしもその人のうちに生きているなら、

その人は多くの実を結びます。

わたしを離れては何もできません。 

 

6わたしから離れる者はだれでも、

役に立たない枝のように投げ捨てられ、枯れてしまいます。

最後には、ほかの枝といっしょに積み上げられ、焼かれてしまうのです。 

(ヨハネの福音書 15:1~6)

 

 

 

 

こちらの記事も参考になりました。

永久保障の教え自体、聖書から逸脱したものであることを

分かりやすく説明してくださっています。