地獄には、どういう人が行くのでしょうか?

神を信じなかっただけで 行ってしまう所...と軽く考えていませんか?

 

神を信じないことが罪であり、どんなに悪いことであるかに気づかないと、

神を信じていないだけで 地獄行きなんて あまりにも厳しすぎる...

という考えになってしまいます。

 

 

地獄に行く理由を、順を追って説明します。

・神を信じていない人           

      ・神を信じたと自分では思っているが、神に従っていない人

 

 

 

 

まず、神を信じないままでは、罪は赦されません。

 

 

そのため、信じなかった人は、地獄に行くことになります。

 

人は 誰もが罪人ですから、罪が赦されないということは、

死後も、汚れたままだということです。

生前に犯した罪が こびりついたままで、裁きの座に出ることになります。

 

罪を赦す権威は、すべての創造者であり著作者である神のみにあります。

 

そのため、神を信じないことは、

罪を赦されるチャンスを 自ら放棄していることになります。

 

 

罪の赦しを受けるには、

イエス様が身代わりとなって十字架に架かって下さったことを 

信じ受け入れなければなりません。

 

(聖書は、基本的にリビングバイブル:改訂新版(いのちのことば社発行)より引用)

23そこでイエスは言われました。

「いいですか。あなたがたは地上に生まれた者ですが、

わたしは天から来た者です。

あなたがたはこの世の者ですが、わたしは違います。 

24だから、『あなたがたは罪が赦されないまま死ぬ』と言ったのです。

わたしが神の子、メシヤであることを信じなければ、

罪ののろいの下で死ぬしかないからです。」 

(ヨハネの福音書 8:23)

 

 

雪の結晶

 

しかし、このように罪を犯した者を赦し、無罪を宣告するのは、

神の公正なやり方に反するのでしょうか。

いいえ、そんなことはありません。

なぜなら彼らが、自分の罪を帳消しにしてくださったイエスを信じた

という事実に基づいて、神はそうなさるからです。 

 

27それでは、救われるために、

私たちは何か誇れるようなことをしたでしょうか。

何もしていません。なぜでしょう。

私たちは自分の善行によって無罪とされるのではないからです。

それは、キリストが成し遂げてくださったことと、

キリストに対する私たちの信仰に基づいているのです。

(ローマ人への手紙 3:26~27)

 

 

 

 

死後、人は、必ず 神の裁きを受けることが決まっています。

なので、生きている間に 何としてでも 神を追い求める必要があるのです。

人生で、最も重要なことだと思って間違いありません。

 

それなのに、なぜ、こんなにも重要なことに気づかず、

神を信じないまま人生を終えてしまった人がいるのでしょうか?

 

 

人は、生きている時に、必ず 福音を聞く機会があります(与えられます)

今の時代ともなると、誰でも ネットで無料の聖書を読むことができます。

つまり、知ろうと思えば、いつでも 誰でも 神を知ることが出来るわけです。

 

 

神を信じなかった人には、何かしら理由や共通点があるのでしょうか?

 

 

答えは 聖書に書いてあります。

 

18この神の子を信じる者は、永遠の滅びを免れます。

しかし信じない者は、神のひとり子を信じなかったので、

すでにさばかれているのです。 

 

19そのさばきに会ったのは、天からの光が世に来ているのに、

行いが悪く、光よりも闇を愛したからです。 

 

20彼らは天からの光をきらい、罪が暴露されるのを恐れて、

光のほうに来ようとしません。 

 

21しかし正しいことを行っている人は、喜んで光のほうに来ます。

神の望まれることを行っていることが、はっきりわかるためです。

(ヨハネの福音書 3:18~21)

 

 

雪の結晶

 

17悪者は地獄へ送り込まれます。

これが、主を忘れた民の定めです

(詩篇 9:17)

 

 

雪の結晶

 

イエスは言われました。

「確かに、悪人や売春婦たちのほうが、

あなたがたより先に神の国に入ります。 

32なぜなら、バプテスマのヨハネが来て、

悔い改めて神に立ち返れと言った時、

あなたがたはその忠告を無視しました。

 

しかし、悪人や売春婦たちは言われたとおりにしました。

あなたがたは、それを目の当たりにしながら、

なお罪を捨てようとしませんでした。

ですから、信じることができなかったのです。

(マタイの福音書 21:31~32)

 

 

雪の結晶

007:しかし、わたしは本当のことを言います。
わたしがこの世を去って行くのは良いことです。
わたしが天に帰らなければ、
助け主の聖霊があなたがたの所へ来ないからです。
わたしが天に帰れば、わたしは聖霊をあなたがたの所に送ります。

008:その方が来られると、三つのことを認めさせてくださいます。
それは、罪と正しさと裁きについてです。

009:罪についてというのは、
彼らが自己中心の生活をして、あくまでもわたしに反逆し、
わたしを信じないことの根源が罪だということです。

010:正しさについてというのは、わたしの言葉と働きの正しさのことで、
それは、わたしが復活してあなたがたの目から見えなくなり、
天のお父様のみもとに帰ることによって証明されるということです。

011:裁きについてというのは、
この世を支配している悪魔がすでに裁かれているということです。
(ヨハネによるイエス・キリストの福音 16:7~11 現代訳)

 

 

 

答えを 一言にまとめるなら、

神を信じなかったのは 心が悪いから

だということになります。

 

 

生前、何度も神を信じるチャンスがあったのに、神に関心すら無く

神を信じれない・受け入れられなかったのは、

心が 自分のことでいっぱいで 欲に捕らわれているから。

結果、心が曇り、自分が何者で(罪の奴隷) どこを歩いているか(暗闇の覆いの中)に

気づけなかったのです。

 

 

この世に属する人にとって、世界の中心は自分であり、罪の状態が当たり前なため、

「罪を悔い改めて神に立ち返れ」と聞いても、ピンと来ないかもしれません。

自分は犯罪者でもないし 地獄に行くような罪なんて思い当たらない...と思う人、

罪があることを分かってはいても 決して認めず、正当化して逃げる人もいます。

 

 

ですが、神に立ち返らない以上、人は 必ず不道徳の中に生きている、、

という衝撃の事実があるのです。

 

 

9私は以前、あなたがたに手紙で、

不品行な者たちと交際しないように書き送りました。 

 

10しかしそれは、信者でない人で性的な罪を犯している者、

強欲な者、どろぼう、偶像を拝む者とは口もきくな、

という意味ではありません。

そのような人たちから離れていようとすれば、

この世から出て行かなければならないからです。 

 

11私がほんとうに意図したところは、

自分はクリスチャンだと公言している者で、

しかも性的な罪にふける者、貪欲な者、人をだます者、

偶像を拝む者、酒に酔う者、人をそしる者とはつき合うな、ということです。

そのような者とは、いっしょに食事をすることもいけません。

(コリント人への手紙Ⅰ 5:9~11)

 

 

雪の結晶

 

3かつて、あなたがたは異教徒がしたがるように、

好色、肉欲、酔酒、遊興、偶像礼拝にふけっていました。

もうそれで十分です。 

4昔の仲間は、もうどんなに誘っても、

あなたがたが悪い遊びに応じないのを見て、ずいぶん驚き、

また、ばかにするかもしれません。 

 

5しかし、覚えておきなさい。

彼らは、生きている者と死んだ者すべてをさばかれる裁判官の前で、

罪を問いただされることになるのです。

(ペテロの手紙Ⅰ 4:3~5)

 

 

雪の結晶

 

1以前のあなたがたは、罪のために永遠に滅びる定めにありました。 

2この世の人と同じ生き方をし、罪にまみれ、

主に反抗する人の心に今も働いている、力ある支配者サタンの

言うままになっていたのです。 

 

3私たちもみな、以前はほかの人たちと同じで、

その生活は、心にある悪を反映したものでした。

欲望や心のおもむくままに生き、行動していたのです。

私たちは、生まれながらに神の怒りを受けて当然の者でした。 
(エペソ人への手紙 2:1~3)

 

 

雪の結晶

 

21-22また、ユダ在住の外国人の中には、彼らの不道徳な習慣と縁を切り

イスラエル人とともに主を礼拝する者もいました。

(エズラ記 6:21~22)

 

 

 

この世から出て行かなければならない、とパウロが断言したことは、

神を信じない人には こうした罪は つきものであり、

これらの罪を犯さない人はいない、という現実を指しています。

 

 

つまり、神を信じない人は、誰もが、性的な罪・貪欲・強欲・騙し・

どろぼう(万引きも盗みに含まれます)・酒に酔う・人をそしる・偶像を拝む(※)

などの罪を、一つ以上必ず犯しているということなのです。

 

(※偶像崇拝は、神でないものを神とする罪です。

嘘と矛盾に満ちた説で 神だと思わせ、信じた人の考えを歪めてしまいます。

結果、真理が分からなくなってしまい、本当の神を信じれなくなります。

しかも、死者は 一切この世に関われないので、

偶像礼拝の正体・実際に拝んでいる対象は、悪霊になります。

異端やカルトの背後には、必ず嘘があり、偶像礼拝も一緒にあります)

 

 

 

さらに、聖書には、神を知ろうともしない人の心境についても 書かれています。

神は、人の心を 全てご存じだからです。

 

15彼らは大きな口をたたく。

『全能の神だって? いったい、だれのことだ。

なぜ神などに従わなければならないのだ。

大したご利益もないのに。』

16悪者がさわった物は、何でも金になる。

 

だが私は、そんな人々とはかかわりたくない。

(ヨブ記 21:15~16)

 

 

雪の結晶

 

1心の中で「神はいない」と言う者は愚かです

彼の心は腐っており、

正しくあるはずがありません。

(詩篇 14:1)

 

 

雪の結晶

 

1「神はいない」と言うのは愚か者です。

心がひねくれていて、

うしろ暗い生活を送っている証拠です。

その者のいのちは罪にむしばまれています。

(詩篇 53:1)

 

 

 

 

確かに、人は、神様を直接見ることはできません。

(神の聖さに耐えきれる人はいません、死んでしまいます)

 

ですが、自然や運・因果応報など、

「神の働き」を現わすものは、いくらでもあります。

 

誰でも 生きている時に、自然の美しさや驚異を感じたことはあるだろうし、 

自分の努力だけでは どうにもならないことがあるというのも

身をもって知っているはずです。

 

 

つまり、聖書を知らなくとも、直接見えなくても、

人知を超えた存在があるのは明らかであり、

誰もが、神の存在を知らされているということです。

 

 

さらに、人は、生きている間に、人生で体験するあらゆる出来事を通して、

神を知る機会・神を求めるきっかけが与えられ続けます。

 

様々な苦難・病気・災害などを通して、

人が いかに無力で取るに足らない存在であるか、

今は生きていても 必ず死ぬということを思い起こさせ、

永遠ーー死後どこに行くか・どうなるかーーを考えさせるのです。

 

 

なのに、その事実に目をつぶって 無かったことにし、神を知ろうともしないのは、

自分の楽しみ(欲)を追い求めているため、心が鈍くなってしまっているからです。

 

 

そのため、正しい情報=聖書には反発するのに、

科学的にも 嘘と矛盾だらけで出来ている進化論には、疑問を持たずに 

そのまま信じ受け入れてしまいます。

 

神を知って立ち返らない限り、霊的な分野においても 間違った方向ーー

ーー悪霊ばかりを恐れてしまう落とし穴ーーに陥ってしまうだけです。

 

異教の特徴であるスピリチュアル、祟り、お盆、怨霊、死者の霊を鎮めるなども、

間違った霊(悪霊)に惑わされた実例だと言えます。

 

(正しい情報に反発する人の共通点は、嘘にめっぽう弱いことです。

聞き心地の良い嘘を 素直に受け入れてしまうので、

この世(悪魔)に騙され、いいように利用しつくされてしまいます)

 

 

 

ある人が、自分を養ってくれる親を 親と思わないで生きているとしたら、

恩知らずだと白い目で見られるでしょう。

それと同様、神を知らないで生きているのも、

本来、立派な罪であると認識する必要があります。

 

 

実は、神を無視し続けることこそ、あらゆる罪の元凶・罪の根だからです。

神を恐れないからこそ、自分の欲のために 平気で人を踏み台にできるのです。

 

009:罪についてというのは、彼らが自己中心の生活をして、

 あくまでもわたしに反逆し、わたしを信じないことの根源が罪だということです。

(ヨハネによるイエス・キリストの福音 16:9 現代訳)

 

 

 

神について知りうることは、生涯を通して明らかなのに、

神はいない...と頑なに認めず、神を知ろうともせず、

そのまま人生を終えてしまった人がいたのだとしたら、

その人は 愚か者と言う以外に適切な言葉はないと思います。

 

 

19なぜなら、彼らは神の真理について本能的に知っているからです。

神が、この知識を彼らの心にお与えになったのです。

 

20世界が創造されてからこのかた、

人々は、天地や、神がお造りになったすべてのものを見て、

神の存在とその偉大な永遠の力をはっきり知っていました。

ですから、彼らには弁解の余地がありません。 

 

21彼らは、確かに神を知っているのです。

けれども、そのことを認めず、神を礼拝せず、

日々神に守られていることを感謝しようともしません。

 

やがて彼らは、神がどのようなお方か、

また自分たちに何を求めておられるかについて、

愚かなことを考えるようになりました。

 

その結果、彼らの心はくもり、訳がわからなくなったのです。 

22「神なんか信じなくてもいい、自分は賢いのだ」と主張しながら、

実際には、全くの愚か者になってしまいました。 

23そして、栄光に輝き、永遠に生きておられる神を礼拝する代わりに、

木や石で、鳥や獣や蛇あるいは滅ぶべき人間の偶像を造り、

それを神としたのです。

 

 

24そこで神は、彼らがその欲望によって性的な罪に深入りするに任せました。

彼らは互いの肉体で、汚らわしく罪深い行為にふけったのです。 

 

25彼らは、神の真理を知っていながら信じようとせず、

あえて偽りを信じる道を選びました。

そして、神によって造られた物を拝みながら、

それらをお造りになった神には従いませんでした。

 

すべてのものの創造主である神こそ、

永遠にほめたたえられる方です。アーメン。

(ローマ人への手紙 1:19~24)

 

 

雪の結晶

 

16過去の時代には、神様は、

あらゆる国民がそれぞれ自分勝手な道に進むことを許しておられました。 

17といっても、神のことが全然わからなかったわけではありません。

 

神を思い起こさせるものは、いつでも私たちの周囲にあったのです。

たとえば、雨を降らせてくださったのも神ですし、

食べ物が不足しないようにと、

収穫を与えて、喜びに満たしてくださったのも神なのです。」

(使徒の働き 14:16~17)

 

 

 

 

 

一方、信者だからといって、安心してはいけません。

神を認知しただけで信じたつもりになってないでしょうか?

 

地獄に落とされるのは、信じなかった者のみならず、

神を知っていても 従わなかった自称クリスチャン・偽クリも含まれるからです。

 

 

神を信じるとは、ただ認知することではなく、

神に信頼し、神の言葉に聞き従うことです。

 

神様は 心を見られますから、

心から神を呼び求めない人には、聖霊を与えられず、罪を示されません。

もちろん、聖霊による新生も起こりません。

 

神を知っているだけでは、信じているつもりなだけでは、

本当に信じているとは言えず、救われていないのです

 

 

神を知ってて従わない人は、

正直 神を知らない人よりも性根が腐っているのは事実です。

 

神を知っているのに従わない・従いたくない理由は、

善悪の判断よりは、自分の欲を満たすのが大事という精神を持っているからです。

そして、この精神こそ、自分が神になって支配したいサタン・悪霊と同じなのです。

 

偽教師ともなると、御言葉を 自分に都合よく曲解し、売り物にしているため、

良心の欠片もなく、理解力もガタ落ちし、

日常生活においても 普通の会話でさえ 話が噛み合わない状態にまでに陥っています。

 

 

8自分の親族、ことに家族を顧みないような人は、

クリスチャンと呼ぶわけにはいきません。

神を知らない人よりも悪いのです。

(テモテへの手紙Ⅰ 5:8)

 

 

雪の結晶

 

12皆さん。心が悪に染まって信仰をなくし、

生ける神から離れることがないように、自分の心を見張りなさい。 

13まだ時間があるうちに、日々、互いにこのことを確かめ合いなさい。

そうすれば、罪に惑わされて神に心を閉ざす人は一人も出ないでしょう。 

(へブル人への手紙 3:12~13)

 

 

雪の結晶

 

5もうよくご存じと思いますが、キリストと神との国に、

汚れた人や貪欲な人は入ることができません。

貪欲な人は偶像礼拝者であって、

神よりもこの世のものを愛して拝んでいるのです。

 

6これらの罪の言いわけをする者たちに、だまされてはなりません。

神の恐ろしい怒りは、こういう行いをする者に容赦なく下るのです。 

7ですから、彼らとのつき合いすら禁じます。 

(エペソ人への手紙 5:5~7)

 

 

 

 

チャンスは 生きている時であっても、無限ではありません。

特に、自称クリスチャンは、いつ扉が閉じられてもおかしくない状況にあります。

 

事実、まだ生きているにもかかわらず、扉が閉じられてしまった人がいたそうです。

 

その人は、教会に何年も通っていましたから、

神を知っていたことになります。

ですが、福音を毎週聞きながらも、集まりを楽しみにしていながらも、

神に立ち返ることを 頑なに拒否し続けてきました。

 

ある日、その人は、重い病気を患い、治る見込みがないと医師から告げられました。

もうすぐ死ぬと自分でも分かっているためか、生きながら死と地獄の恐怖に囚われ、

何を言っても 話が届かない状態になっていたそうです。

見舞った人々は、イエス様を呼び求めるように必死に説得しましたが、

恐怖に囚われるだけで、もう悔い改められません。

 

その後 少し経って、亡くなられたとのこと。

永遠の滅びに行ってしまったことでしょう。。

 

そのため、生きている時に、神様から捨てられてしまったことになります。

神は あなどられる方ではないからです。

 

 

 

あくまでも主導権は神にあります。

死ぬ前の滑り込みは、無理だと思った方がいいです。

(死ぬ直前に、急に悔い改めて天国に行ったなどの証は、

偽物・嘘だと思っていいでしょう)

 

 

13狭い門を通らなければ、天の国に入ることはできません。

人を滅びに導く道は広く、多くの人がその楽な道を進み、

広い門から入って行きます。 

14しかし、いのちに至る門は小さく、その道は狭いので、

ほんのわずかな人しか見つけることができません。

(マタイの福音書 7:13~14)

 

 

雪の結晶

 

20主であり救い主であるイエス・キリストを知り、

この世の悪い生活からのがれた人が、またもとの罪の生活に舞い戻り、

その奴隷となるなら、その状態は以前よりもっと悪くなるでしょう。 

 

21キリストを知ったあとで聖なる戒めに背くくらいなら、

キリストについて何も知らなかったほうが、彼らにとってよかったのです。 

 

22古いことわざに、「犬は自分が吐いた物をなめる」

「豚はいくら洗ってやっても、泥の中をころげ回る」とありますが、

まさに罪の生活に舞い戻る人々のことではありませんか。

(ペテロの手紙Ⅱ 2:20~21)

 

 

 

 

 

結局、どの時代の人だろうと、神に従わないのは、

他人に迷惑をかけてでも 自分さえよければいい考えだからです。

 

もちろん、そういうことを人に言ったら、馬鹿にされるので 表には出しませんが、

心の中では そう思っているからこそ、行いの実として現れてきます。

いつの時代にも 不正・不祥事が絶えないのが、何よりの証拠です。

 

結果、永遠に滅びてしまうのですから、

愚か以外に表現のしようがありません。

 

 

 

人の肉(生まれながらの人の性質)は 罪を好むため、

自分の考えや判断なんて当てにできないと思い知り、第一に神を求め続けない限り、

知らず知らずのうちに道を踏み外してしまいます。

 

神を知っていながら脱落しないためには、

ひたすら神に信頼し続けることが求められます。

 

 

 

12皆さん。心が悪に染まって信仰をなくし、

生ける神から離れることがないように、自分の心を見張りなさい。 

 

13まだ時間があるうちに、日々、互いにこのことを確かめ合いなさい。

そうすれば、罪に惑わされて神に心を閉ざす人は一人も出ないでしょう。 

 

14もし私たちが、初めてキリストを信じた時と同じ気持ちで神に信頼し、

最後まで忠実であれば、キリストにある祝福を受けることができるのです。 

 

15ですから、今この時がかんじんなのです。

次の警告を、片時も忘れてはなりません。

「今日、語られる神の声を聞いたなら、

神の怒りを招いた時のように、心をかたくなにしてはいけない。」

(詩篇95:7~8) 

16神の声を聞きながら反抗した人たちとは、いったいだれでしょう。

指導者モーセに率いられてエジプトを出たイスラエル人すべてです。 

17四十年もの間、神の怒りを買ったのは、いったいだれでしたか。

罪のために荒野で死に果てた、あのイスラエル人ではありませんか。 

18神が誓って約束の地に入らせないと断言されたのは、

だれに対してでしたか。

従うことを拒んだ、あの人たち全員です。 

19彼らが約束の地に入れなかったのは、神を信頼しなかったからです。

(へブル人への手紙 3:12~19)

 

 

雪の結晶

 

016:神は、その独り子イエス・キリストをこの世に遣わされ、
 十字架上で私たちの罪の身代わりとして死なせるほどに、
私たちを愛してくださった。
それは、イエス・キリストを信じる人がだれも滅びることなく、
救われるためである。


017:神が御子イエス・キリストをこの世に遣わされたのは、
世の人たちを裁くためではなく、
御子によって世の人たちが救われるためである。


018:御子を信じる人は、決して裁かれない。
しかし、御子を信じない人は、
神の御子を信じなかったので、すでに裁かれている。
  

019:その裁きというのは、こうである。
光である神の御子キリストがこの世に来られたのに、
罪の結果である自分の行いが悪いので、
その醜さが光のもとで明らかにされることを恐れて、
光のもとに来ようとはせず、 むしろ闇を愛したのである。


020:悪いことをする者は、いつでも光を避けて、
光であるイエス・キリストの所に来ようとはせず、
むしろ光であるイエス・キリストを憎んでいる。

 
021:しかし、真理に従って生活しようとする人は、
 光であるイエス・キリストの所に来る。
それは、神がそうさせてくださっていることが明らかになるためである。
 

(ヨハネによるイエス・キリストの福音 3:16~21 現代訳)

 

 

雪の結晶

 

049:人は皆、裁きの火によって心の中に塩気を付けられなければなりません。

そうでないと、すぐに腐敗、堕落してしまうからです。

050:塩はよいものです。

しかし、塩が塩気を失ったら、

一体何によって塩気を取り戻すことができるでしょうか。

自分自身のうちに塩気を保ちなさい。

このように、自分には厳しくし、ほかの人とは平和を保ちなさい。」

(マルコによるイエス・キリストの福音 9:49~50 現代訳)

 

 

雪の結晶

 

024:「狭い門から入るように努めなさい。

事実、入ろうとしても入れない人が多いからです。

025:まず、神の国の戸が閉じてしまう前に入らなければなりません。

 

家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、

外に立って戸をたたき、『ご主人様。どうぞ開けてください』と言っても、

主人は『あなたがたがどこの人なのか、私は知らない』と答えるでしょう。

 

026:すると、あなたがたはこう言い始めるでしょう。

『私たちはご一緒に食べたり飲んだりしましたし、

あなたは私たちの大通りで教えてくださいました。

私たちは全然知らない間柄ではないはずです。』

027:しかし、主人はこう言うでしょう。

『私はあなたがたとは全く関係がない。

悪い事をしている者たち。さあ、とっとと出て行ってくれ。』

 

これと同じように、外的なつながりを持っていると思っていても、

内的本質が生れ変っていない人は、わたしとは何の関係もありません。

 

028:神の国に、アブラハムやイサクやヤコブや

すべての預言者たちが入っているのに、

あなたがたが外に投げ出されるようなことになった時、

そこで泣き叫んで歯ぎしりしても、もう遅いのです。

(ルカによるイエス・キリストの福音 13:24~28 現代訳)