主人公のまり恵は、知的障がい児である長男(ムーサン)を引き取り、夫に健常児の二男(道夫)を託し、離婚。
ところが、道夫が事故に遭い、半身不随となり、また夫と道夫と長男(ムーサン)と、
家族そろって生活することになる。
そしてムーサンは道夫の車椅子を押し、自殺をする。崖から2人とも飛び降りてしまう。
まり恵はまた夫と別れ、一人で生きようとする。
義母も孫たちの自殺の悲しみのうちに、亡くなった。
そのことを小説内の「僕」が感じた、以下の文。
時はむごたらしく過ぎ去る、という恐怖。
おまえはとくに必要なものとしてこの世界にまねかれたわけではなかったのだと、
暴力的なひとなぎでこちらを抹消し、
事実その後も、
とくに様がわりせず続いてゆく、この世界。
おもわず色ペンでライン引いちゃう文章です!
あと、まり恵が語る無垢(イノセンス)とセンチメンタリティについても、興味がひかれます。
養護学校でダウン症と心臓疾患を合併した少女が亡くなった時、みんなで、彼女の
思い出集を作ろうと計画した時、まり恵はそれに反対する。そして意見した。
※
障害児を持つ親は、子どものイノセンスを強調する傾向があるということ。
もともと子どもが持っているイノセンス以上のものを、親自身が作り上げてしまうのだと。
そして親は、その強調されたイノセンスにすがり、たよりにしてしまうところがあるでしょう? と。
イノセンスは強調されすぎると、その反対の極になってしまう。
もともと私たちはイノセンスを失っているのに。
私たちは、一挙にではなく、ゆっくり時間をかけてイノセンスに戻るのであり、
現実での過程をとばして、安易にニセのイノセンスに戻ることが、
センチメンタリティなのだということ。
わたし(まり恵)はそれがなりより嫌なんだ……
※
つまり、イノセンスが強調された障がい児の死にたいして、思い出集などを作る行為は、
一挙に安易なイノセンスに戻ろうとする過程(センチメンタリティ)であり、
まり恵はそれを嫌っている、ということなんだと思います。
なるほど~と、考えます。
まだ途中までしか読んでないので、また読書に戻ります……。