終戦記念日。

六年前の8月13日に祖父 茂夫は旅立ち

15日に葬儀が行われました。

まるでお盆に集まりなさい!と

親戚一同、大招集をかけるような

どこまでも茂夫おじいさんらしさを貫く最期でした。


気付いた時には末期の胃がん

その状態に痛いと一言も言わない祖父に医者も驚く程でした。

亡くなる前日にうなぎが食べたい!と言い出したり

逝く間際に初めて「ありがとう」と「ごめんなさい」を言ったり。


生前は100歳まで生きる!と豪語していた祖父。

生きていれば今年がその100歳の年。


今月頭に七回忌を迎え、無事終えることが出来ました。


昔の人にしては骨太で体格も良く

気力、体力、共に頗る強くて

とてもおじいちゃんと呼べる存在ではなく

近所でも有名な本当に「恐ろしいおじいさん」でした。


そんな中、家族の中で一番話をしたり

一番あからさまにケンカしたのは

私のように思います。


戦争体験の話も良く聞き、また聞かされました。

この片田舎にも赤紙が届き

どう招集され、どう見送られ、どこに行き

そこで目の前や真横や真後ろの仲間が次々と負傷したり亡くなっていく様子

どんなに恐ろしかったかを。


当時の私は生まれて出会った

おじいさんという話上手なキャラクターが

もう二度と起こらない、とても怖い話をしている

そう感じていました。


その中には名字の呼び方改名の話も。

うちは元々、上村(ウエムラ)だったが

ある日、隊の上の方に

「ウエムラ」と呼ばれ、たまたまその時

「エムラ」に聞こえて返事をしなかったら

ボコボコにされたことをきっかけに

これはかなわん!と

「カミムラ」に変えた、というお話。


家族や親戚は、もう沢山聞かされているので

おじいさんは戦争の話をしだすと止まらなくなると言い

本当なのか?大げさなのか?

その惨状の中、生き延びたことを自慢しているのか?

色んなおもいが駆け巡るも

この話をする時には元気なおじいさんが

更に元気になる、とこれも一つ孫の役目とも感じ

私は質問も交えて、茂夫おじいさんの話を聞いていました。



今になって出てくる遺品や写真、初めて知ることがあります。

{E359F46F-F2BC-492D-98FB-5331C20E5CD4:01}

最終的に軍曹になった、と誇らしげに語ってもいました。

この勲章は戦争に行く際に

持って出て行った革の鞄の中に

大事にしまってあったとのことです。


初めて見ました。

そして戦時中、どう過ごしたかのメモも。

{FBCD4B73-128F-4635-8584-4485B641F026:01}

おじいさんは時系列ナシで

自分の話したいことを日々語っていた為

私の認識も断片的となり

これを見て愕然、唖然となりました。


茂夫21歳~32歳までの11年もの間、携わっていたこと。

病気になろうが、怪我しようが

体格の良さ、気性の強さからか

帰ってきては、又呼ばれる月日。


今となれば、21歳~32歳という時期が

人の人生にとってどんな時か良くわかります。

幸運に生還するも、その後の人生を過ごすモチベーションを考えると

彼の話やその様子、鼓舞するしかなかったのかと。


しかしこれが、方田舎の一青年に普通に起こったことだということ。

そして茂夫おじいさんは知らない今。


当時、彼から聞く戦争体験の話はいつも

最終的には武勇伝的に聞こえてきて

ある時たまりかねてか

子供ながらに聞いたことがあります。


じゃあ、おじいさんは戦争をどう思うの??

すると茂夫おじいさんは間髪入れずに


そんなもん、あかんに決まっとるやろ!
戦争なんて絶対あかん!
人も、家族も、全てがめちゃくちゃになる!


と言い放ち、話を止めました。

子供の私は彼に大きく安堵した覚えがあります。


私自身、茂夫おじいさんが戦争に携わった歳も大きく越え

あたらしく我が身に沁み込んでくるものがあります。


間違っている、ことも

それが良いこととされ、従わざるをえない

戦争


茂夫おじいさんから本当に沢山の話を聞きましたが

今、私に残るものは

戦争は絶対にあかん!

たった一度、一番強く言い放ったこの言葉です。


そう、絶対にあかん!のです。

逆にどうして繰り返すことが出来るのかわからないのです。


平和な世界を

今日この日に

改めて強く、心より願います。