仮想現実の中の自由 とは、何なのか?、と、考えてみる。
コンピュータゲームの中の、NPC=ノン プレイヤー キャラ? で、ある、自分自身は、プログラムによって、五感の感じ方やら、反応の仕方なんかも、あらかじめ設定されていて、それに気付かない状態にある。
自分自身とは、何なのか? と、思考しようとしても、僅かばかりの、自由にプログラミング出来る領域は、限られている=意識領域。
思考とは、プログラムである。
よって、試行錯誤とは、このプログラムを、組み換える作業のようなもの。
意識領域での試行錯誤は、無意識領域の設定に、よって、その範囲を、制限されていて、それを、意識的に、越える事は、難しい。
まあ、これが、パラダイムとか、ゆうやつである。
パラダイムシフトする為には、無意識領域の設定を、解除したり、書き換えたり、する事が、必要になる。
夢見は、無意識領域に繋がる。
無意識領域の体験を、意識化する事で、無意識領域の設定を、変える?
と、ゆうのが、明晰夢見道=サマディ?の目的?
そもそもの仮想現実のプログラムは、空(くう)とゆう、認識不可能の領域=無色界(むしきかい) に、あり、それは、あらゆる想像したものが、形を持った世界で、あるけど、非存在なので、認識出来ない。
たとえば、いろんな想像を、するけど、後で、何を想像していたのか、覚えていないみたいな。
思い出せる想像とは、それに様々な設定を、つけて、色界(しきかい)=無意識領域の存在と、した想像物。
無意識領域の存在は、意識領域では、認識している事には、気付かないけど、無意識領域では、存在として、キャッチされている。
たとえば、アニメのキャラクターは、想像である。
その想像に、いろんな設定を、つけて、現実に、近い、想像物に、仕上げていく。
その、想像物=アニメのキャラクター が、出来ると、現実の意識領域では、認識していない=そのアニメキャラクターが作られた事を知らない 多数の人々も、無意識領域では、その存在を、キャッチしている。
まあ、アニメ映画を、作る と、して、制作者が、どんどん作る と、その作る動きを、キャッチして、なんか、ワクワクする=無意識領域のキャッチ?
みたいなもん。
期待とか、不安とか、ゆうのは、無意識領域の事。
その期待感とか、不安感とかを、感覚として、意識化したものが、勘とか、虫の知らせ、予知 みたいはものか?
無意識領域を、意識化する=明晰夢見道=サマディ? に、入ると、ゲームの中の、NPC=ノン プレイヤー キャラ が、PC=プレイヤー キャラ に、なる?
・・・存在と、存在のあいだにある、共感とか、が、現実の世界での動きの元になっている?
・・・共感も、あれば、反感も、ある。
・・・その共感や、反感を、意識出来る場合も、あれば、無意識の場合 もある。
・・・存在で無くなれば=非存在になる 空(くう)=仮想現実のプログラム=あらゆる想像の形 を、垣間見るけど、想像なので、存在しない。
・・・だから、色界(しきかい)=主に無意識領域 を、自由に、変える事が、仮想現実の世界の中の最大の自由なのではないだろうか?