テストの採点は、どこまでいっても原始的にやるしかない。そう思っていたけれど、世の中は変わったみたいで、すでにタブレットでテストに答え、紙の答案をパソコンを操作してマル付けしたりできるようになっている、らしいのです。
残念ながら、乗り遅れています。それは効率的ではないし、時間の無駄だし、みんながやっていることなんだから、同じようにやればいいんじゃないの? とも思います。
でも、やっていない。基本はめんどくさがり屋ですから、何をするにしても、やり方を習わなくちゃいけないし、それだけのことなのに、やれていない。人に訊いてやっていく、というのができないタチなんでしょう。
昔、結婚したての頃は、彼女にも採点を手伝ってもらって、記号のところなどを採点してもらいました。よほど時間がなかったんでしょう。それなのに、本当はそんなことはしてはいけないのに、手伝ってもらっていた。
すぐに彼女も忙しくなって、私の手伝いなどしなくなったけれど、あれはよほど時間の使い方がダメだったんでしょうね。今さらながら反省しますけど、何だか新婚生活しているなっていうしあわせ感はありましたね。オバカなしあわせ感ではあるんですけど。
どっちにしろ、テストの採点は、自分でコツコツやるしかないし、その人の思考を刺激するテストが作れたらいいけど、そんなのできるわけがないな。人の思考はどんな時に刺激されるのか、それはなかなかわかりません。
私はどれだけ他人に刺激を与えているのか、たぶん、与えていなくて、眠くなったり、落胆させたり、ヒマだなあと思わせたり、いい時間を過ごしているとは思えない。
それでも、私は先生のお仕事をしている。でも、そんなに長くはなくて、あと少しで終わり。そうしたら、好きなことをして、やがて死んでいく、ということになります。
だから、私としては、あまり自らがこの世からいなくなることを極力考えたくないのです。死ぬのはものすごくイヤなんです。でも、それは逃れられないし、その時になったら諦めがつくんだろうか。いや、それまでに好きなこと・やりたいことができるんだろうか。そもそも好きなことって何だろう。何がやりたいだろう。考えると、すべてが虚しくなります。大金持ちになっても、独裁者になっても、世界旅行をしても、たくさんの人に出会っても、私はどれだけそれを還元できるだろう。
ひとりで楽しい思いを独占してもそれは何にもならない。あの世にまでお金は持っていけないし、いい気持ちになったんだったら、それはみんなに返していかなくてはならない。さて、好きなこととは何か? 私は何を人に伝えられるのか? 私はちゃんと人と話ができているのか? できてないことばかりで、イヤになってしまいます。
反省は尽きないです。仕方がない。反省を生かして、今からできることをしていく! それしかないんでしょうね。