みんなさんこんにちは。再び冬へ逆戻り。寒いですね。こんな時は外に出かけたくはないですね。今日は西公園界隈の歴史スポットのご紹介です。前回のブログで西公園の東照宮をご紹介した際に覚えておいてくださいと書きました源光院にまつわるお話です。幕末から明治にかけての出来事です。
少し歴史的な背景をご紹介しますので長くはなりますがおつきあいください。時は慶応3年(1868)、7月15日長崎で浦上4番崩れと呼ばれる日本最後のキリスト教弾圧事件が起こりました。4番というからには1番も2番も3番もありました。寛政2年(1790)に一番崩れ、天保13年(1842)二番崩れ、安政6年(1859)に三番崩れ、とキリスト教弾圧が行われました。長崎県の大浦天主堂の北東に当たる地域に浦上村があり、そこには、当時幕府ご禁制のキリスト教を信奉するキリスト教の地下集団組織がありました。長崎の大浦にフランス人の神父さんが建てた天主堂を見学に来た一団がありましたが、その中の一人の老女が、神父さんに、実は私たちは、浦上のキリシタンですと囁いたことが幕府の役人の耳に入りキリスト教徒の一斉粛清が行われる大事件となりました。拘禁が行われたことを浦上四番崩れと呼んでおります。その数4000名ともいわれ、長崎一藩では処理しきれないので20藩で預かることとなりましたが、山口藩で預かる男女合わせて二百数十名を福岡藩で一時的に預かることとなりましたが、当時大きな獄舎もなく、仕方なく、当時の源光院を一部改修して獄舎に供した次第です。なにしろ急ごしらえなので、床に蓆を引いただけの狭い部屋に4人ほどを押し込み、12月の冬には雨風雪が吹き込み、ろくに食べ物も与えなかったのでとらわれ人は、やせ衰え、死者も数多く出たようです。明治3年(1872)に山口藩から引き取りに来た役人は獄舎の人のあまりにも凄惨な様子に驚き、「これが人間か、これでは引き取れない」と、福岡藩の間で引き取りは紛糾したようです。まさに日本のアウシュビッツとなってしまったのです。さてこの場所は今では往時の姿を見ることはできませんが、そのあとに、福岡師範学校が建ち、その後、師範学校は移転し、現在、福岡市立付属中学校が建っています。師範学校の碑の様子。石碑は、付属中学校の正面入り口を入ったところにあります。
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付属中学校入り口から西公園荒津山を望む。
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付属中学校の正面玄関の様子。
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入口左手には藤棚があります。

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この藤棚は、西公園の登り口にあります小田部藤園の藤の木の株分けをしたものです。現在の様子には、往年の凄惨な歴史を物語る痕跡のかけらもありませんが、西公園の桜を見に行かれた帰りには一度はちよっと足を延ばしてみては如何でしょうかねえ。さて、小田部藤園(別途ご紹介いたしましょう)の跡地は登り口近くにあり、教会が建っていて藤は中庭の一部をなしています。過去のブログリスト(ここをクリック下さい)。