皆さん、こんにちは。享保の大飢饉ご存じですか?享保17年(1732)に日本中は、不順な天候と長雨などで作物ができずに、大飢饉に見舞われて、多くの餓死者を出しました。日本全体で、約260万人、福岡でも2万6千人の人が餓死したと伝えられています。約280年程前のことです。福岡では、黒田藩の時代で、6代目藩主黒田継高の時代です。餓死のためになくなった人たちを供養するために福岡でもあちこちで供養のために餓人地蔵が建てられました。今日は、これまでに、いくつかの地蔵尊をご紹介いたしましたが、主な場所をおさらいして、まとめてご紹介いたします。博多川沿いにあります川端餓人地蔵ここをクリック下さい)、中央区大手門の昭和通りに面してあります浄念寺(ここをクリック下さい)、中央区地行にあります、  圓徳寺ここをクリック下さい)などですが、今日は、この3か所に加えて新たに2か所、中央区南公園にあります餓人地蔵と同じく中央区警固3丁目にあります味噌喰い地蔵をご紹介いたします。いづれも、享保の飢饉の餓死者を供養するために設けられたたものです。
最初に南公園の餓人地蔵の様子。
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南公園お分かりですね。福岡動物園のあるところです。動物園の正面入り口を通り過ぎてバス通りに沿って、坂を上っていくと上智中高校前バス停の近くに動物園西口がありますが、その道路の向かい側に、南公園ジョッギング入り口と書かれた標識があるところから、坂を上っていくと餓人地蔵入り口の標識があり山道を進むとお地蔵さんがあります。
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横に案内板があります.
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奥に入ると、地蔵尊があり、詳しい案内版があります。
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享保の大飢饉では、福岡でも、天候不順とその後2年続きの長雨の影響で、ウンカやイナゴが大量に発生し、作物が育たずに、里人達は食べるものがなく、藩が緊急に荒戸の魚町の地に用意した粥を提供する救援所で一椀の粥を食べに行くために、現在南公園がある大休山(おおやすみやま)の現在の餓人地蔵の或るあたりまでやっとの思いでたどりついたもののそれ以上に歩を進めることができず息絶えたといわれています。この地で亡くなった人たちを供養するために建てられたのが、南公園の餓人地蔵です。次は、味噌喰い地蔵です。こちらは、地元の方もご存じの方が少なく、場所が特定しにくい場所です。もっともわかりやすいのは、昔の城南線(といってもわからないかな?)の古小烏の電停があったところ付近(現在は、雙葉高校入口のバス停)から、海側の方向へ坂を上っていくと上りきったところの左手に赤い鳥居が建っていて味噌喰い地蔵の石碑があります。地名は警固3丁目すが、桜坂との境界近くなので、桜坂1丁目とも記されています。道がわかると、はなみずき通りに面した筑紫学園高中校の横の道を上っていくこともできます。お好きなルートを選ばれたらよいでしょう。


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石段の登り口の前にある石碑の様子。

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石段を登っていくと、地蔵堂があります。

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お地蔵さんの様子

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堂内に由来が紹介されています。

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地蔵がある場所は、享保の大飢饉のときに黒田藩が設けた荒戸魚町浜の餓え人救い小屋の粥場に里人たちが向かう際の最短ルートに当たり、粥場に向かう多くの人達がここで力尽きて亡くなったとされ、この地に住む人は、餓死者を供養するために、地蔵尊を設けて、お地蔵さんに握り飯や、味噌をお供えしていたとされますが、このお地蔵さんを崇敬して参詣していた村人がお地蔵さんに願を掛け、満願の日にお地蔵さんの口元に味噌がにじんでいたことから、味噌を供える風習が始まり、味噌喰い地蔵と呼ばれるようになったとされます。これで福岡の主だった餓人地蔵さんはご紹介できたものと思います。ぜひ供養方々訪れてみてください。過去のブログリスト(ここをクリック下さい