皆さんこんにちは。箱崎には多くの旧跡があります。今日はそのうちのいくつか、恵光院、筥崎宮神苑花庭園、網屋天神などをご紹介いたします。今日ご紹介し切れないものは、日を改めてといたします。まずは恵光院、瑠璃山医王蜜寺と称し、嘉永年中(1624-44)に筑前藩二代目藩主黒田忠之公を開基として始まったものです。つまり390年ほど前に開かれた古い歴史を持ったお寺であります。入り口は、筥崎宮正面参道がわにも、旧唐津街道側のどちらにも開かれております。

参道側からの山門の様子。山門の前には、瑠璃山医王蜜寺ときざまれていてその横には、高野山真言宗恵光院と刻まれた石碑があります

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お寺の由緒をご紹介しましょう。

少し読みづらいかもしれませんね。ご本尊は薬師如来様、明治維新後に吹き荒れた廃仏毀釈の荒波の中で、筥崎宮周辺の各社坊が廃滅する中でも残存し、かく社坊や筥崎宮の仏像、仏画などが移設されたとあります。特に灯篭堂は、永元2年(1208)創建のものです。1587年、秀吉が、島津征討を行い、九州を制圧した際に箱崎に滞陣し、千利休が茶を奉ったところとして歴史的に有名な遺構でもあります。この建物は、明治3年(1870)に筥崎宮より移築されたものです。箱崎の茶会については、九大医学部構内に千利休が雲竜の釜をかけて茶の湯を立てた釜かけの松があります。(ここをクリック下さい)灯篭堂の様子です。

堂前にある木は菩提樹で樹齢約200年とも言われ、堂内には、筥崎の海中より出現したとされる石仏11面観世音菩薩が祀られています。
恵光院に隣合せる形で、筥崎宮神苑花庭園がありいます。現在はぼたんの花が盛りです



細い小枝などで文字を書くと、黒い文字が読み取れるので、文字通りハガキのキと呼ばれます。一度訪ねてみては如何でしょうかね。
さて次は、網屋町にあります網屋天神です。天神様の境内には、焼けずの観音と呼ばれます観音堂があります。網屋天神様の様子。

焼けずの観音堂の様子です。


ここの網屋天神様は、菅原道真公をお祀りする八幡様ですが、この焼けずの観音は、寛永3年、336前に、この網屋町で大火がありましたが、その際に、観音様のおかげで不思議にも治まり、焼けずの観音様として敬われています。さらに興味深いものは、堂に隣合せて鯨塚があります。

鯨塚の横に鯨塚の墓標があります。この墓標には、

鯨塚は、筥崎の沖合で鯨が見つかり、網屋の漁師たちが総掛で体長13mの鯨をとらえ、鯨のおかげで浦中がうるったので感謝を込めて供養をするために背骨の一部を鯨塚に埋葬したものですが、筥崎の海岸一帯も埋め立てが進み、鉄道工事の関係などで鯨塚のことは忘れられていたものを九州大学農学部水産学科の関係者が発見し、大学構内に安置していたものを網屋漁業協同組合の方々が、漁師の氏神である網屋天神の境内に移して末永く祀ることになっと記されています。
この網屋天神様は、大変な場所で、境内の外の一角に、黒田藩のお茶屋跡の碑があります。

このあたりは、筑前黒田藩主が遠出の際に、お茶を用意した場にあたります。石碑には、お休み処御亭(オチン)と称すとあります。
この網屋町は、まだ、福岡市に路面電車の市内電車が走っていたころ、天神町(てんじんのちょう)から東端の終点帝大前(その後、帝国大学九州大学から国立九州大学へ改称されたので九大前と改称)までを電車が走っていましたが(これを貫線とよんでいた)その時の、帝大前の一つ手前の駅が網屋町で、九大の学生たちの下宿屋でにぎわっていました。
今は電車に変わって市内バスが走っていますが同名のバス停があります。網屋町にはもう一つ忘れてはならない車僧観音堂がありますが、ご紹介は、次回に譲ります。過去のブログリスト(ここをクリック下さい)