皆さん、こんにちは。11月も今日でお終い。今日は太宰府市にあります水城址のご紹介です。水城(みずき)ご存知ですね。まずは、水城址の様子から。
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画面上部のこんもりと木が茂った部分が、水城址です。前にある道路は国道3号線。少し歴史をご紹介いたしましょう。水城は664年(1350年前)に構築された土塁です。奈良時代、7世紀中ごろ朝鮮半島では、百済、新羅、高句麗が、抗争を繰り返していましたが、百済と親交のあった時の日本の政府大和朝廷は百済支援のために、大軍を送りましたが白村江(はくすきのえ)の戦いで大敗を喫し、遠の朝廷とされる太宰府政庁が唐、新羅連合軍に侵攻されるのを恐れて敵が博多に上陸した際の太宰府政庁を守る防御ラインとして設けた土塁が、水城址です。土塁の総延長1.2km、土塁の幅77m高さは9mです。現在その全容を昔の儘に見ることはできませんが、太宰府市の水城に、その跡を一部見ることができます。
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博多側と、太宰府側には、土塁に沿って、濠が設けられ、敵が容易に土塁を超えることができないように工夫されていました。博多側の濠の幅は60mともいわれます。国道3号線の水城3丁目の信号がある水城三叉路の部分にあります。少しそばに寄ってみると、博多側のかって濠があった部分は、埋められて平地に変わっています。
 
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水城の名前は、古くからあり、日本書紀には、「大堤を築きて水を貯えしむ」と記述されています。また、水城東門址近くの井戸から見つかった土器には「水城」の字が記されていたとされます。この水城は国の史蹟指定を受けていて、石碑がが立っています。
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少し離れたところには、大きな水城大堤の石碑があります。
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この水城堤には、福岡の鴻臚館から続く古代官道の入り口に当たる、水城堤西門、と東門があったとされます。海外からの使者や、日本の朝廷からの使者などは、この官道を通って太宰府政庁へ向かったとされます。政庁の役人としてきた 大伴旅人もこの地を通っており、730年冬12月大納言となって都へ戻るために太宰府を離れる大友旅人と、それを見送った娘子児島の問答歌を紹介する石碑があります。右の歌が児島、左が旅人。
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「当たり前ならああもこうもしましょうものを、恐れ多くて痛いほどに激しく振りたい袖も我慢しているのです。大和への道が雲に隠れあなたの姿はやがてみえなくなるのでしょう。それでもわたくしが、別れを惜しんで振る袖を無礼だとお思いになりませんように」と贈った児島の歌に旅人は、「大和への旅の途中の吉備国の児島を通ったならば、きっと同じ名の筑紫の児島のことが想われることだろう」と返しています。なんとやさしい思いやりの気持ちをうたった問答歌なんでしょう。この水城址ぜひ一度は訪れてみては如何でしょうか?過去のブログリスト(ここをクリックください