皆さん、こんにちは。今日は、大宰府市にあります観世音寺のご紹介です。皆さん方は、天満宮へは足しげく行かれるものと思いますが、観世音寺へは、さーどうでしょうか?府大寺とも言われ、歴史の重みのあるお寺です。一度はお参りをされることをお勧めしたいとおもいます。まずは、観世音寺の、本堂(講堂)の様子から。
 
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観世音寺に行くには、自家用車で行かれる方は、お寺の前に広い駐車場がありますのでこれを利用されると良いでしょう。バスを利用する場合は、大宰府駅を降りて出口を出ると、コミュニティーバスの乗り場があり、毎時29分ごとに、まほろば号という名前のバスが出ていますので之を利用するのが一番便利です。観世音寺前というバス停で降りると政庁通りに面して、観世音寺と刻まれた石碑があります。駅から約20分弱です。
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石碑から、お寺に向かって、気持ちの良い参道が続いています。
 
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両側の木々に囲まれた路を、往時を偲びらがら歩いて行くと、境内につきます。少し、観世音寺の歴史をご紹介いたしましょう。
7世紀の半ばころ、中国唐は、高句麗へ進出し、朝鮮半島の情勢は風雲急を告げ、唐と連合した新羅は、651年に、百済を、668年には、高句麗を滅ぼした。百済から救済を求められた日本の斉明天皇は、意を決して、百済救済に向かうこととして、西下し、福岡に入り、朝倉に百済救済のための大本営を設立。これが、朝倉橘広庭宮(ここをクリック下さい)でありますが、天皇は、661年ご高齢のため、朝倉の地で崩御されたが、帝の意思を受けて、その子天智天皇は、出兵するも、白村江の戦いに敗れてしまい、大宰府の周辺に、水城堤を築いたり山城を設けたりして唐の侵攻に供える事に腐心した。この間の事情は、ここでは割愛することいたします。天智天皇は、母帝斉明天皇の追善を行うために、大宰府の地に観世音寺を建立することを命じになり、聖武天皇天平18年(746年)、今から、1266年前に観世音寺は、完成しています。しかしながら、たび重なる、火災や台風の被害を受けて、往時の建物は、消失し、現存のものは、江戸時代に再建されたものです。しかしながら、お寺には、国宝の梵鐘を始め、藤原後期の、仏像などが、宝蔵に、保管展示されていて、歴史の重みを、肌で感じることができます。現在は、清水山普門院観世音寺として天台宗の一寺院として運用されていますが、観世音寺は、往時は、府大寺として、境内、東側には、菩薩院、西側には、戒壇院(ここをクリック下さい)を持ち、古代九州の僧統の中心でありました。戒壇院は別途ご紹介いたします。菩薩院の跡は、現在宝蔵として仏像の展示保管がなされています。少し歴史の紹介が長くなりすぎてしまいました。宝蔵の仏像の様子を紹介いたしましょう。館内は撮影禁止となっていますので、撮影ができませんので絵葉書から、転用したもので様子をご紹介いたします。
 
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馬頭観世音菩薩 (重要文化財、藤原後期の作で高さが503cmもあり、大きさに圧倒されます)
 
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不空羂策観世音菩薩(重要文化財、鎌倉時代作、高さ517cm)
 
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11面観世音菩薩象(重要文化財、藤原後期作、498cm)すべてをご紹介することはできませんが、5mを超える大きな仏像の姿に圧倒され、自然と頭が下がります。ぜひとも、宝蔵へのご訪問をお勧めいたします。
再び、本堂の前に戻ると、本堂へ向かって左側に、
 
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木げんじゅがあります。この木は、大変に珍しい木で、説明文を参照下さい。
 
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さらに木の横に、これまた珍しい、古代の石臼.てんがいがあります。
 
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本堂の右手には、五重の塔の礎石があります。
 
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少し横へ廻ると国宝の梵鐘の鐘楼があります。京都の妙心寺にあります梵鐘と兄弟の梵鐘とも言われていますが、説明板を参照下さい。
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最後に、菅原道真公の「不出門」にあります漢詩の一句をご紹介して、本稿を終わることにいたします。
都府楼はわずかに瓦の色を看る。観世音寺は、ただ、鐘の声を聴く
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