引き続き唐人町界隈のご紹介です。唐人町には、由緒のあるお寺さんが数多くあります。これは、黒田藩の下級武士の住まいを作ったのと、旧唐津街道沿いの街の賑わいが影響し合っているものと思われます。また、此処には、黒田藩の学問所の一つ西学問所があった場所でもあります。ちなみに主だったお寺さんの名前を挙げますと五重塔で有名な大園寺、幕末の勤王の志士達のお墓があります正光寺、江戸時代の火消し騒動で身代わりになった森八兵衛を祀った八兵衛地蔵があります成道寺、さらには、善龍寺など枚挙にいとまがないほどです。今日は、旧唐津街道へ足を踏み入れていない関係で、いくつかのお寺さんに限ってご紹介いたします。まず最初は、大園寺です。黒門川通りに沿って当仁小学校から裏手へまわるとすぐに。大園寺の看板が目に入り、五重塔が見えてきます。

道路を道なりに少し歩くと大園寺の門前に着きます。

此処まで来ますと目の前に大きな五重塔が見えます。博多区にあります東長寺の五重塔が今年(2011)5月にに落慶(完成を祝うこと)されるまでは、福岡県唯一の五重の塔でありました。

大園寺があります所は、かつて大園寺町と呼ばれていましたが、今では旧町名として記憶に残るだけですが、ありました、大園寺町の存在を示す版碑が残されていました曰く、古来この地は、筑前国、早良郡に属していたが、江戸時代(約400年前)黒田藩黒田長政により、大園寺が、荒戸山(今の西公園)から、移されて以来大園寺町と呼称されてきたと書かれています。

大園寺の本堂の様子です。

既にご紹介いたしました谷わくどうとちんちく殿(どん)(ここをクリック)の珍竹をここで見る事ができます。さて、お寺さんを跡にして界隈を歩いてお隣の正光寺にお参りをいたしました。.ここには、福岡藩で名を知られた中村三兄弟の墓所があります。

正光寺の山門です。有情大観音が祀られていて、大観音霊場と書かれた石柱が建っています。

境内の奥の墓所の一角に中村三兄弟を合祀した墓石があります。
確かに、中村用六、中村円汰、中村恒次郎 刻まれています。

少し、三人についてご紹介をいたします。
三人兄弟の中で長兄は、用六で、次兄の円太とともに藩に「封事一冊」を提出するが、容れられずに、逆に禁固の身となる。のちに、筑前竹騒動の鎮撫総裁となるが、暴徒が、県庁へ乱入してしまい、その責任を取って割腹自殺をしています。一方次兄の円汰は、藩校修猷館の訓導となりますが、尊攘派で脱藩を繰り返しながら活動し最終的に博多奈良屋町大堂山報光寺で自刃しています。三男の恒次郎は、円太を追って脱藩し、京都禁門変で戦死しています。このように、明治維新直前の激動の時代を
駆け足で走りぬいています。
一端、唐人町商店街へ戻り、福岡藩の西学問所甘棠館跡へ立ち寄りました。志賀島から出土した金印の文字を読み解いたことで有名な亀井南冥が館長を務めた福岡藩の二つの学問所(東学問所の修猷館と西学問所の甘棠館)のうちの一つであります。

商店街が切れた辺りに小さな公園があってそこに学問所跡があります。

正光寺の後、枡小屋跡へ向かいました。今は公園になっていますが、慶長12年(1607)、今から400年ほど昔の江戸時代に当たりますが、この辺りに、穀物を計る枡の製造と検査をしていた場所があったと書かれています。

この案内板によれば、江戸時代、福岡藩では、年貢米を計る枡を「納め枡(おさめます)」と呼び、家臣の俸禄給を計る枡を「御国町枡(みくにまちます)」と呼び二種類の枡を使い分けていたようです。寛文9年(1691)幕府は各藩まちまちの枡の大きさを統一し、「京枡」を公定枡と定め一般に京枡が使われるようになったようです。枡小屋があった場所は現在、公園となっていて、案内板が昔を語りついでいます。

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