今日は、福岡の国体道路に面した若宮神社(ここをクリック)の近くにあります由緒あるお寺の紹介です。若宮神社のすぐ横の路地を南側へ歩いて行くと右手に盛福寺が見えますさらに歩を進めると左手に浄土真宗の法泉寺、さらに南下していくと右手に古色蒼然とした安養院があります。さらに西側には、香正寺がありますが、今日は、盛福寺と法泉寺、安養院のご紹介です。まずは盛福寺
盛福寺は、お寺の姿は家並みの切れ間からすぐに見えるので。所在は分かりますが、いささかお寺らしからぬ造作に見えるのと入り口がわかりにくかったので、訪問は遠慮しましたので、画像は、残念ながらありません。お寺の由来を御紹介いたしますと。時代は江戸時代、福岡藩の二代目のお殿様、黒田忠之の重臣であった木村源兵衛の位牌があるとされています。島原の乱のときに功績があった源兵衛は、忠之から黒田姓をたまわったっものの、のちに浪人となるも、忠之に復帰の命を受け、忠之より短刀をもらったために、源兵衛さん、なにをどう解釈したものか、切腹してしまった。之を憐れんだ忠之は盛福寺を建立し源兵衛さんを丁重に埋葬して供養をしたとつたえられています
 
さて次は、法泉寺です。路地を左に折れて少し歩くと、左手に法泉寺があります。山門の奥には仏堂が見えています。
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奥にあります仏堂です。
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仏堂の格子戸の所に、お寺の由来が書かれています。
 
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曰く、当山は浄土真宗本願寺派のお寺で、開祖を親鸞上人とするとあり、御本尊は、阿弥陀如来(南無阿弥陀仏)とあります。さらに浄土真宗の教えを信じる者は、「私は、なんのために生きているのか」という人生の根本命題の答えを頂けるとともに、深く因果の道理をわきまえて現世祈祷やまじないなどの迷信にたよらず、生き抜くことができますとあります。誠に立派なお言葉だと感心させられました。境内には、樹齢2000年に及ばんと言われます大楠の木があり、長年の間、お寺詣での人々を見守ってきたのだろうとしばし考えさせられました。
 
次に安養院です。
法泉寺にお参りをした後、すこし南の方へ歩きますと、右手に、古色一杯といった風情の山門が現れます。浄土宗鎮西派のお寺で山号は、香白山受楽寺と言います。
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現在は、外見は疲弊したかの様な印象を受けますが、古い歴史を持ったお寺さんです。貝原益軒が著した筑前国続風土記に依りますと、次のように紹介されている様です。開基は、1592~1591に僧信誉によります。彼は、朝鮮国全羅道香白山安養院の住職でありましたが、黒田長政の家臣の池田九郎兵衛にとらわれて、日本に渡り、幾度も九郎兵衛に還俗を求められたが、これに迎合しないので、九郎兵衛もついには還俗をあきらめ、草庵を建て仏像を置き、朝鮮時代の名を取って安養院としたと伝えられています。したがって、朝鮮からとらわれて日本に来た人たちの多くを葬るお寺として時を経てきています。したがって境内には多くの朝鮮人の墓があるようです。しかし残念ながら、お寺の山門には施錠されていて中へは入れませんでした。門前に住職のお言葉がありました。「門に施錠しなければならない世の中になってしまいました。もうしわけありません」。残念なことです。過去のブログ一覧リスト(ここをクリック下さい
さて、安養院では、忘れてはいけないお話があります。空誉上人の伝承話です。空誉上人については、福岡藩処刑城跡碑(ここをクリック下さい)と浄念寺(ここをクリック下さい)の項にほかの伝承をご紹介いたしておりますのでそちらも参照下さい。福岡藩2代藩主黒田忠之は、鷹狩りの帰途、薬院の容見天神の近くにある安養院で休憩を取った際に、接待の小姓秀之丈が美しいので一目ぼれしてしまい、城の小姓に差し出すようにと申し入れたが、寺の住職空誉に断られ、立腹。素性を調べて、女性であることを突き止めるや、空誉を破戒の罪で残酷に釜ゆでにして責め殺した。その上で寺小姓を側室として迎え、お秀での方としたが、お秀での方に空誉の怨霊がとりついたという伝承話があります。空誉の遺骸は弟子瞬道が引き取り浄念寺に納めたとされますが、浄念寺の縁起とは少しちがっています。