鳥飼八幡宮の次は、前回ご紹介しました修猷館のときに名前が出ました貝原益軒のお話です。以前に益軒先生の第11代のご子孫に当たります鳥取大学医学部名誉教授であります貝原信明氏の御講演で伺ったお話を少しまとめて益軒先生のご紹介をいたします。
貝原益軒
貝原益軒というお名前は、みなさんすぐにあの有名な養生訓という書物の名前を思い出されることだろうと思います。そうですその著書で有名ですが彼のライフワークともいわれます「大和本草」が素晴らしい著書であることはあまり知られてはいないようにも思われます。後で「大和本草」は御紹介することにして、益軒の先生の生い立ちから紹介いたします。
益軒先生は寛永7年(1630年)、福岡に生まれています。今から約400年ほど前のことで、江戸時代、福岡がまだ黒田藩の藩政下にあったころです。19歳で藩に出仕したが藩主の怒りにふれたために浪人の身となり、26歳の時に長崎に医学の修行に行き、その後医者になるために江戸へ向かった様です。その後、27歳で、3代藩主の黒田光之に再出仕を命ぜられ、藩に奉じています。陽明学を勉強し、のちには、朱子学へと方向を変えています。したがって医学者、儒学者として活躍をした方であります。大変な勉強家、努力家でもあり、生涯に1353冊の書物を読破したともいわれ、59歳のときに、17巻の黒田家譜を編纂し、藩に献上しています。
さらには、藩命により、59歳の時に、筑前の地誌編纂のために領内を巡遊し、16年間に渡り、旅をして筑前国続風土記を編纂して30巻を藩に献上しています。完成が75才の時ですから、いかに精力的に仕事をこなしたか、また健康であったかが、しのばれます。したがって、天性の旅行好きから、江戸へ12度、長崎へ5度、京都へは24度も出かけております。その際の旅の模様を紀行文にして20編を著しています。特に62歳のときに、東軒夫人を伴って京都へ旅を行い、これは、日本初のフルムーン旅行にあたります。今のように飛行機も新幹線もない時代のことです。ご本人はもちろんのこと東軒夫人のそのバイタリティーと健康の素晴らしさには、ただただ、感嘆するばかす。その著書も枚挙にいとまがなく、益軒十訓(家訓、君子訓、大和俗訓。楽訓、和俗童子訓、五常訓、家道訓、養生訓、文武訓、初学訓)を著し、80歳のときに、ライフワークの集大成である大和本草を著しています。この大和本草は、日本産の薬草類だけにとどまらず、農産物や雑草の類に至るまで、すべて植物類を分類して編纂したもので、特に漢名のないものも含めて、イラスト付きで紹介されているところにその業績の素晴らしさが称賛されます。しかもライフワークの完成がなんと80歳のときなのです。爪の垢を煎じて飲んでもそこまでには至りませんね。85歳で生涯を閉じていますが、辞世の句を「こしかたは、一夜ばかりの心地して、八十路あまりの夢を見しかな」と詠んでいますが、「心は、たのしむべし、苦しむべからず、身は労すべし、やすめ過すべからず」のモットーそのものの様な気がいたします。
さて、貝原益軒先生の第12代の御子孫の方が、キャナルシティー博多の近くで、旧瓦町の一角にあります下照姫神社のそばに貝原整形外科病院を運営なさっています。
さて、貝原益軒先生と、東建夫人の御墓所が、今川橋の近くにあります金龍寺にあります。
金龍寺の石碑

金龍寺の碑文
金龍寺は、糸島郡にあったものを、1611年に黒田忠之の手によって、現在地に移設されたものです。貝原益軒と東軒夫人の墓所の近くには倉田百三の文学碑も立っております。

金龍寺本堂の全景
訪問した時は、工事中で本堂周辺はまだ整理されていませんでした。

貝原益軒の座像

益軒の座像ですが逆光で少し見にくいですね(ゴカンベンを)。
貝原益軒の墓所

さてこの金龍寺には
、「出家とその弟子」の著者倉田百三が金龍寺に仮住まいをしたことから文学碑が立っています。

さて今日は此処までといたします。さて次は、どこへぢきましょうかね?