福岡の東側から順番に西へ向かって紹介いたします。
西南学院発祥の地の碑
福岡城址の入り口上の橋(現在は平和台鴻臚館前のバス停)の位置で、明治通りに面して、読売新聞西部本社ビルがあります。その西側の角に碑がひっそり立っています。
 
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さらにその碑には学院創設者のC.K.ドージャーの略歴が紹介されています。1916(大正5年)4月に開校したとあります。現在、西南学院は、中学、高校さらには大学までが一貫校として西新の地にあります。
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さらに当時の校舎の姿が紹介されています。
 
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一方、福岡藩には江戸時代、藩校が東学問所と西学問所の二つがあり東学問所として修猷館(しゅうゆうかん)がありました。東に対して西学問所は、甘棠館(かんとうかん)と呼ばれていました。修猷館は現在は西新の町にあり、県内有数の進学高校として伝統が受け継がれています。昭和30年代、我が母校福岡高校とは九州大学の合格者人数の多さを競いあったりしたり、ラグビー戦で競いあった良きライバルでもありました。まず修猷館の碑からご紹介です。西南学院の碑よりさらに西側に少し行ったところに三井住友海上のビルが立っています。その西側のビルの壁に沿って立っています。このビルの横の通りの上に九州製氷と書かれた大きな看板が掛かっていますが、昭和30年代に、スポーツセンターにアイススケートリンクができるまでこの製氷会社の土地を利用したスケートリンクが作られて大変ににぎわったものです。私もスケートはここで覚えました。
 
修猷館発祥の地の碑
 
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この碑文が書かれている石は、ビルの色と同じになっているために気をつけていないと見過ごしてしまいそうです。私もこの前を何度か通り過ぎていて発見するのに苦労しました。
 
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全体像は上図の様になっています。説明文の要旨は、藩校修猷館は1784年(天明4年)貝原益軒の流れをくむ竹田定良が館長として迎えられたとあります。一方の甘棠館(かんとうかん)は後でご紹介いたします亀井南冥が館長として活躍した学問所です。
鳥飼八幡宮を紹介するつもりでしたが、甘棠館がでたついでに、先に亀井南冥の方を紹介します。亀井南冥他一族の墓所は浄満寺にあります。
 
 
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浄満寺
浄満寺は鳥飼八幡宮の向かい側にあり、入り口に大きな亀井南冥昭陽先生の墓所と書かれた大きな石碑が建っているのですぐにわかります。山門のすぐ右側に、説明の碑文がたっています。浄満寺は、1573年の開基で、約440年ほど前にたてられたものです。
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山門右側にある碑文
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浄満寺には亀井一族の墓所があり13基の墓石があります。山門をくぐってすぐ左側に向かい、突き当たった所右に折れて西側の奥の角へ行きますと墓所の説明文とともに一族の墓所があります。亀井南冥は大変に優れた医者、儒学者であります。甘棠館の館長でもあり、1784(天明4年)に志賀島で発見された金印について、黒田藩主の命令により、研究を続け、「金印弁」を著述した人で後の金印の研究に道をつけた人でもあります。息子の昭陽も優れた人でありますが、南冥の門下生としては、広瀬淡窓、平野國臣、高場乱などを輩出しています。
 
南冥先生の墓石
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今日はこの辺りまでとして次回は、鳥飼八幡宮、貝原益軒の墓所でもあります金龍寺などのご紹介といたします。