福岡の歴史シリーズに戻ります。福岡には、現在3つの公園があります。東の東公園(かつての元寇襲来のときの激戦の地)には、公園が整備されていて、県庁庁舎があります。県庁庁舎が立った関係で、昭和の中ごろに比べると手狭になった気がいたします。公園内には、日蓮上人像、亀山上皇の像が立っています。これはまた別途御紹介いたします。西には、桜の名所西公園、南には南公園があり現在は動物園、植物園もあり市民の憩いの場となっております。さて、今日は西公園の御紹介です。西公園は桜の名所として有名で、春の桜の季節ともなりますと大勢の市民たちが桜見物に出かけてきて、「花より酒」と桜の下での大宴会が始まります。公園の登り口にそって道の両側には沢山のお店が開かれて、賑やかです。下の画像は桜の季節のころのものです。
 
 
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この登り口に沿って頂上の方へと少し歩いていきますと左手に少し入り込んだ場所に、平野二郎國臣の銅像があります。
 
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平野二郎國臣の銅像の裏側の碑文ですが、簡単に紹介しますと國臣は、筑前藩主の家に生まれ、幼壮のころから頭脳明晰であったようです。
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明治維新の前夜、脱藩し、倒幕を志した同士とともに活動をしたが、勤王の志士への弾圧は厳しく、薩摩に逃れ、「わが胸の燃ゆる思いに比べれば煙は薄し、桜島山」と、一首を詠んでいる。その後、但馬の中山忠光の大和挙兵に呼応して立つも、とらえられて京都六角の獄舎にて新選組の手にかかかり享年37歳で生涯を閉じています。
さて、國臣の銅像に別れて、道を登っていくとつきあたりに光雲(てるも)神社があります。
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この光雲神社は、福岡藩の藩祖である黒田孝高(法名龍光院殿)と初代藩主の黒田長政(法名興雲院殿)の法名からそれぞれ一字を取って光雲神社と命名されています。中に入りますとすぐ右手に大きな酒杯をもった黒田24騎の一人母里(ぼり)太兵衛(毛利太兵衛とも言いますがどちらでもOKです)の銅像があります。下の画像は残念ながら首が切れてしまいました(あしからず、ゴメンナサイ)
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この母里太平衛は毛利太平衛のどちらで呼んでもかまいません。母里太平衛が、江戸時代に江戸城の普請を行ったときに、家康より感謝状を頂きましたが、その中に毛利太平衛と書かれたことから毛利太平衛と呼称するようになったとも言われており、どちらでも構わないとされておりますが 毛利太平衛の方が一般に流布しているようであります。