今日は福岡の中心部にあります警固神社と、江戸時代に使用された福岡藩の処刑場跡の碑を紹介します。
 
警固神社
警固神社は、天神の西鉄福岡駅のすぐ西側の警固公園に隣り合わせたところにあります。周りは天神の繁華街であり、なぜこんなところに、神社がという疑問がわきますが、昭和20年代から30年代にかけては、神社の隣は広大な敷地で春吉中学校の運動場として使われていた時代があります。その後、跡地の一部を使って福岡スポーツセンターが建てられ、一時はスケートリンクとして、市民のスポーツの場所として利用されてきましたがその後、冬の大相撲の開催場所として(現在は国際センターに移りましたが)も利用された時代があります。前置きが長くなりましたが、この警固神社は、1800年に近い長い歴史を持った由緒ある神社であります。
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いつものように、正面からの撮影は避けて斜めから撮影しました。
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神社の御由緒にしたがって紹介いたしますと古くは筑前国那珂郡岩戸卿の上警固村に御鎮座されていましたが、神功皇后が福岡の福崎山(福岡城址があるところで初代黒田藩主の黒田長政が福岡城を築城した場所)に警固三柱の大神を祭られたのが、警固神社の創建だといわれています。したがって黒田長政が福崎山に築城をするために、いったん下警固村へ移されたたものの、社殿完成に合わせて、現在地にご鎮座されたとされています。現在は県社として位置付けられていますが、御祭神は伊邪那岐大神が禊祓をされたときにお生まれになりました神直日神(かみなおびのかみ)、大直日神(おおなおびのかみ)八十禍津日神(やそまがつひのかみ)の警固大神の三柱がまつられていまして相殿として武角身命(たけつぬみのみこと)、豊玉姫命(とよたまひめのみこと)神功皇后、応神天皇が祭られています。したがって同じ伊邪那岐大神から生まれられた、筒男之命を祀られる住吉神社、綿津見神を祀られる志賀島の志賀海神社とは兄弟神社といえます。
ちなみにこの警固という名前は大宰府政庁の防衛施設であります警護所元寇襲来を防ぐために、北条時宗は、九州に領地をもつ御家人を移り住まわせ御家人に博多湾岸を警護させる異国警護番役を担わせた)に由来するものであります
 
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明治34年建之の高灯篭もあります。警固神社は、人々の過ちや種々の罪事を祓除していただける霊験があります。一度お参りになってはいかがですか?
 
 
福岡藩処刑場跡
福岡市中央区にあります天神中央公園の一角に江戸時代の福岡藩の処刑場跡があります。公園の南側に噴水の場がありますがその横手の木々が茂った一角にひっそりと処刑場の跡を示す碑が設けられています。注意深く気を気をつけて歩かないと、気付かずに通り過ぎてしまいそうです。
 
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公園の南側の噴水のある場所のすぐ裏側に木が茂った場所があります
 
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その木に隠れるようにして碑が見えます。
 
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この場所は江戸時代に、福岡藩で罪を犯して処刑された人たちが処刑をされた場所であります。
 
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碑の横には、長円形の墓石が並んで置かれています。文字は定かには読めませんが、それぞれ違った人に対するものと思われます。
 
昭和25~26年ごろ、この辺りには県知事公舎がありました。私も、小学校のころ同級生に、知事さんのお嬢さんがいた関係から、友達とよく知事公舎に遊びに行ったものですが、今はその公舎の跡はすでになく、すべて、公園になっています。この処刑場は、処刑をした後の人血などをあらい流すのに、川の傍が都合がよかろうと、四十川【現在の薬院新川)の近くに設けられたようであります。この公園に隣接してアクロス福岡があり、その向かいには、水鏡天満宮があり、さらには道を挟んで、旧福岡県貴賓館、公会堂であった建物がありますので訪れて見られるのもよいかと思われます。今日はこの辺りで終わります。少しづつ福岡の方へと話題を移していきたいものと思います。その後少し調べてみたら次のようなことがわかりました。
江戸時代に福岡藩の罪人が処刑されたことから、空誉上人は、処刑された人たちを供養していた様ですが、之を知った黒田藩二代目の忠之は、罪人として処刑したものを供養するとはけしからんということで釜ゆでにしたと伝えられています。その場所がこの碑がある場だということの様であります。時代変わって昭和になって、福岡県知事の大塚惟精が此処にあった知事公舎に入ったところ夜な夜な幽霊が出るということから調べていくと上述の様な空誉上人の話がわかり、300年に渡って祟っていたようであります。そこで、知事は、この地に小祠を建てて供養したと伝えられています。その祠の跡が碑のある場所に当たります。ところで、空誉上人の話については、いくつかの伝承があります。此処にご紹介したものはまずその中の一つの話として受け止めてください。おいおいご紹介いたします。さて、このブログを最初に書いた時には、上述の様な伝承話として書き起こしましたが、その後いろいろと調べていくうちに、どうやら、処刑場跡というのは、福岡藩の罪人の処刑場跡というよりも、空誉上人を処刑した跡というのことが正しいようで、上人を処刑した跡の碑であるという様に読み替えてください。罪人の処刑を行っていたかどうかは定かではありませんが、空誉上人の処刑をした場所であることは間違いがないようでありますのでそのように修正をさせていただきます。