眞子内親王殿下のご婚約騒動の記事を読んで、この記事を思い出しました。
再掲します。
高貴な皇族の女性はこうあって欲しいと願いつつ。
PCの書類を見返していたら、10年も前に拾った戦前の女性皇族のエピソードを見つけました。
備忘録としてupします。
伏見宮貞愛親王妃利子女王
(ふしみのみやさだなるしんのうひ としこじょおう安政5年5月21日(1858年7月1日) - 昭和2年(1927年)10月24日)
有栖川宮幟仁親王の四女。母は家女房森則子。
日露戦争の時、出征兵士たちは東京市内の各所に宿をとったが、利子妃はお付の者に
「世の噂によると、宿舎のなかには、兵士たちに粗末な食事しか与えず、冷やかに迎える家があるそうである。まことに気の毒なこと。この邸を兵卒の宿舎にあてて、手厚くもてなして欲しい」
と命じた。
早速、伏見宮邸は兵士の宿舎となると、利子妃は喜び、「我々は居間を移すから、及ぶ限りの兵士を 迎え、手を尽くしてもてなし、気持ちよく戦地へ送り出すように」と指示する。そして、七七名の兵士が伏見宮御殿を宿舎とし、酒肴まで賜った。自ら銚子をとってすすめる利子妃の自愛深い心遣いに、兵士たちは喜びの涙を流したという。
酒井美意子氏著 『ある華族の昭和史』より
久邇宮邦彦王妃俔子
(くによしおうひ ちかこ、1879年(明治12年)10月19日 - 1956年(昭和31年)9月9日)は、久邇宮邦彦王の妃。香淳皇后の母。旧薩摩藩主、公爵島津忠義の八女。
子供たちには「自分のことは自分でするように」と躾に厳しかった。
昭和4年に邦彦王が亡くなると、俔子妃は殿下の遺した詩集や日記などの整理に明け暮れ、追慕の日々を送った。殿下の肖像を銀製の小型の写真ケースに入れて、 肌身離さず持ち歩くほど、情愛細やかな女性だった。
東久邇 成子
(ひがしくに しげこ、1925年(大正14年)12月6日 - 1961年(昭和36年)7月23日)は、日本の元皇族。昭和天皇と香淳皇后の第一皇女。今上天皇と常陸宮正仁親王の長姉にあたる。お印は紅梅。勲等は勲一等。
旧名は、照宮 成子内親王(てるのみや しげこないしんのう)。皇籍離脱前の名は、盛厚王妃 成子内親王(もりひろおうひ しげこないしんのう)。
この照宮さまのことは以前「もう、明けたなあ」
という記事で紹介したことがあります。
その照宮さまの17歳の時の作文です。
私はどういうめぐり合わせか高貴な家に生まれた。私は絶えず世間の注視の中にある。いつどこにおいてもわたしは優れていなければならない。私は皇室を背負っている。私の言動は直ちに皇室にひびいてくる。どうして安閑としていられよう。
高い木には風が当たり易い。それなのに高きにありながら多くの弱点をもつ自分をみるときこの地位にいる資格があるかどうか恐ろしくなる。自分の能力は誰よりも自分で一番よくわかっている。ともかく私は自分で自分を育て築きあげていかなければならない。
この炭鉱の奥深くで、来る日も来る日も働き続け世間から忘れ去られそして人知れず死に行く運命をもった人々の前に立った時、護衛の警官やおおぜいのお供をひきつれている自分の姿にいたたまれぬ申し訳なさを感じた。
女子学習院中等科5年生 1942年頃
やりくりの記(暮しの手帖5号1949年10月)より
短いエピソードですが、皆様、皇族としてのお覚悟があったのだなぁと感想を持ちました。
昨今の皇室のことを思うにつけ、偽善ではないお覚悟に敬意を感じます。
チャンネル桜の【今週の御皇室】で高清水さんが文藝春秋を引用して、平成の御世代わりの時「伝統無視」から洋装で即位の礼をする案があったことを紹介されていました。
そこで、その文藝春秋2012年2月号を私も読んでみました。
特集記事は4本、高清水さんが紹介されたのは『左遷された「昭和天皇の忠臣」』ですが、その他の記事も興味深いものでした。
今の宮内庁も外務省からの出向者が多く、伝統がないがしろにされているのではないかと思われるのですが、30年前の昭和時代からすでに皇室についての知識もなく伝統を無視し、GHQの作った憲法の政教分離を硬直的に振りかざす人たちに占領されていたことが驚きです。
これは50年程前の昭和40年代から戦前の宮内庁の職員と入れ替わりに他の省庁のキャリア組が集まるようになったためだそうです。
高清水さんが紹介された以外にも驚くようなことが書いてあります。
この『左遷された「昭和天皇の忠臣」』は11ページにも渡るものですが、書き起こしをする時間が取れないので、画像でupします。
画像はクリックすると拡大します。