照宮成子内親王という方をご存知でしょうか?
今上陛下の一番上のお姉様で、東久邇宮家に嫁がれた方です。GHQに皇籍を剥奪されなければ、結婚後も生涯皇族だったことでしょう。
この照宮様と昭和天皇、香淳皇后の悲しいお話を紹介します。

『誰か昭和を想わざる 昭和ラプソディ』の昭和36年のところからエピソードを引用します。敬称は略されていますが、ご容赦を。

【以下引用】
■「もう、明けたなあ」東久邇成子が死去
夜通しの看病も甲斐なく、35歳で逝った娘の病院から出た時、昭和天皇の目に入ったのは白んできた空の色だった。
 
「もう、明けたなあ」
 
傍らの皇后を振り返りながら、つぶやく昭和天皇。昭和36年7/23午前4時50分、普段と同じ明け方の空の色、未明にみまかった東久邇成子は昭和天皇の子供たちの中でも、いちばん苦労の多い人生だった子供だけに、昭和35年11月に成子が急遽、入院してもう回復の見込みのないと知った時の昭和天皇、皇后のショックは大きかったという。なに不自由ない皇女暮らしの筈が、戦争中の結婚、東京大空襲の最中の防空壕の中での初産、金銭を一度も手にした事のない教育を受けて来た成子が戦後のインフレ生活に普通の主婦として、家計の算段に目を回しての苦労もようやく落着いて、5人の子供を育てながらPTA仲間と親しく付き合う、ごく一般的な家庭の女性の生き方が板に付いてきた矢先に襲った病魔だった。
 
成子は昭和天皇と皇后の間に、いちばん初めに生まれた子供である。昭和18年3月に女子学習院中等科を卒業すると、当時は皇族であった東久邇宮盛厚王と10/13に結婚、しかし間もなく戦火は東京にもやって来る。成子の初産は昭和20年3/10未明、東京大空襲の最中に防空壕の中で長男を生んだ。敗戦後の昭和22年10月には皇籍離脱で夫は東久邇盛厚として北海道炭坑汽船のサラリーマンとなる。戦後のインフレ生活の中、慣れない家計のやりくりに戸惑う事ばかりだったという。手芸の内職で家計を助けたり、来客を迎えるのに自分で果実を切って出したりと、一般の主婦としての振る舞いが世間で話題にもなった。そうした一方で、女性としては当時は珍しかった車の免許にもチャレンジ、見事、合格して天皇家の女性では初めての運転免許保持者にもなった。父であり生物学者でもあった昭和天皇にならい、スズメガの観察をしたり、PTAの集まりでは独特な合理主義に基いた子育てが話題になるなど、成子は戦前の宮中教育さえなければ社会に出てバリバリ働けるような利発な女性であったと、昭和天皇の侍従らは語っている。
 
昭和33年新年にはNHKテレビ「私の秘密」に出演、成子がこの番組の大ファンであるのを知ったNHKが出演交渉、皇居ではカルタ会の日に当たる1/2の生出演なので当初は不可能と思われたが、昭和天皇からゴーサインが出て出演となった。成子は当日、カルタ会を退席してNHKに出演、皇居に集まった皇族は皆、カルタ会を中断して成子のテレビ出演を見たといった事もあった。
 
「天皇が見舞いに行くのは危篤の時-」
 
この昔からの不文律に縛られて、愛娘の見舞いに昭和天皇、皇后がなかなか行けない事から、成子は宮内庁病院へ転院、昭和天皇は週に1、2回、皇后は毎日、成子の見舞いに出かけ、食事を口に運んだり、バラやダリアの花を病室に飾ったり、布団を直したりなどあれこれと面倒を見ていたという。宮内庁病院ともなれば、成子の母の皇后にしてみれば、いちばん苦労をかけた娘がさながら実家帰りでもしたような気分だったのかもしれない。毎朝7時には皇后は皇居の中のバラ畑に出かけて、娘の病室に飾るバラを選んでいたという。成子の最後の外出は5/7、宮内庁とは目と鼻の先の宮中での昭和天皇還暦祝いであった。すでに自力で歩けない成子は手押し車で移動して、ずっとソファに横になって還暦祝いに参加した。
 
7月に入ってからは連日の猛暑、成子の病室にはクーラーがなかったため、昭和天皇、皇后たっての頼みでクーラーが取り付けられたが、成子の衰弱は暑さからいちだんとひどくなっていて、7/22夜、危険な状態となった。成子の病室には皇太子夫妻ら兄弟と、父である昭和天皇、母である皇后ら家族が皆、集まっていた。昭和天皇はベッドの横に座って黙って成子を見つめるばかり。皇后は成子の手をずっと握り、成子が目を覚ますと番茶を飲ませるなどしていた。
 
7/23午前1時、皇后の勧めるお茶も成子の喉を通らなくなる。午前3時15分、東久邇成子は結腸癒着と腹壁腫瘍にて死去、35歳。16歳の長男を筆頭に5人のまだ小さい子供を残しての死だった。昭和天皇は何も言わず、皇后は成子の手を握ったままだった。10時間、ずっと握り続けた娘の手が再び、母の皇后の手を握り返す事はなかった。白々と明けて来た朝の光の中、病院を出て車に乗り込んだ昭和天皇と皇后、それまで泣くのを我慢していた皇后は、車の中でがっくりとうなだれているのを記者に目撃されている。そこには皇后である前に娘を失ったばかりの1人の母としての姿があった。
【以上】
『誰か昭和を想わざる 昭和ラプソディ』
http://www.geocities.jp/showahistory/history04/topics36b.html


以前、私は香淳皇后のことがあまり好きではありませんでした。皇后陛下が皇太子妃時代に虐められたという噂があったからでした。
しかし、このエピソードを読んでから、香淳皇后にも本当にお辛いことがあったのだと気づきました。皇后であるゆえ、母としての気持ちを押し殺すようなこともしなければならなかったのだと。
たくさんいるお子様のうち、女性はみな降嫁される運命ですが、ご長女だけは皇族に嫁がせ、手元に置けるし、苦労もさせずにすむとお思いになっていたことでしょう。その方をこういった形でなくされるとは。
そして、その後、香淳皇后のいろいろなエピソードを知るにつれ、嫌う気持ちは消えてしまいました。

ところで、照宮様は秋篠宮家の佳子内親王殿下に面影が似ているという人がいます。
写真は照宮様と佳子内親王殿下です。皆さんはどう思われますか?


$ひなげしのブログ-佳子様照宮様