かめおかゆみこ です。
一昨日から、この連載、スタートしていまーす。![]()
昨日のお話、腑に落ちましたでしょうか?
否定を否定しないということ
https://ameblo.jp/kamewaza/entry-12952060962.html
「自己否定している自分はだめだ」と思ってしまう、
この時点で、自己否定しちゃっているというお話でした。
そして、光と闇、天と地…すべてのことは、対でできている
という原則からすると、否定と肯定はセット。
よって、否定だけをなくすことはできないというわけです。
さらに言えば、フォーカスの原則として、
「意識したものが拡大する」つまり、
「否定」を意識すればするほど、「否定」が強くなる。
たとえば、きらいなひとがいるとして、そのひとのことを
考えたくないと思えば思うほど頭に浮かんでしまう。
ますます、不快な気持ちが増幅してしまう、というパターン。
皮肉ですよね~。でも、これが、フォーカスのしくみなんです。
ちなみに、以前、動画もつくってます♪
ただ、「否定」がなくなると、「肯定」もなくなる…
ということ自体は、実は悪いことではないんです。
少し脱線しますが、私、「自己肯定感」ということばが、
あまり好きじゃないんです。
「自己肯定」ということばがあると、必ず、
「自己否定」ということばが意識されますから。
そもそも、自分という人間は、すでに存在しているわけで、
わざわざ、「肯定」する必要もないんですね。
「私、ほんとに、ここにいますよね? 肯定してください」
とか言い出したら、ちょっとアブないですから!
大切なのは、
いま、ここに生きている自分を「みとめる」ことです。
この「みとめる」の語源は、「見て(こころに)止める」
という意味です。
「ああ、ここにいるんだね」と、ただ受け止めることです。
そこにしのごの理屈をつける必要はないんですね。
ただ、いる。それだけで充分なんです。
何ができるとか、できないとか、
何かをもっているとかいないとか、関係ないんです。
まして、他者と比べる必要は一切ないんです。
さらに脱線しますが、この「他者と比べて」どうのこうの
…という発想って、ほんとにあほだと思います。![]()
「比べる」ことそのものは、別に問題ないんですよ。
だって、新しい服を買おうとするとき、手にとっている
この服が、自分の身長と比べて丈が長いとか短いとか、
幅が広いとかせまいとか、比べなかったら、
自分に合う服が選べないじゃないですか。
ポイントは、比べた結果、
こっちがすぐれているとか劣っているとか、という評価、
もっと言うと、ジャッジ(判定・裁定)することが
よろしくない、ということです。
それも、品物の大小ならまだしも、人間に対して適用する
ことが、まちがい、もとい、かんちがいなのだと思うのです。
(すべてのことに、いい・悪いも、正しい・間違いもない、
というのがワタシの持論です)
「自己否定」をしてしまうひとは、そのかんちがいに
まきこまれているだけなのです。
「私は劣っている」「私は〇〇ができないからだめだ」
という発想自体が、人生最大のかんちがいなのだと、
まずは気づいてほしいと思っています。
というか、そこに気づいて、ジャッジをてばなすことができれば、
「自己否定」は卒業できますし、
同時に、「自己肯定」も必要なくなります。
ただ、ある。ただ、いる。それだけでいいことになるのです。
「自己否定」「自己肯定」といった見かたがなくなると、
ことばそのものも存在意味をうしなって、消失していくでしょう。
ああ、さっぱり!![]()
とはいえ、このかんちがいの闇は実におおきいのです。
明日からは、そのあたりをていねいに、
ひもといていくことにしましょう。
