合間合間に「鉄」と「神仏巡り」と「その後の震災遺構」を時間の許す限り回って参りましたのでご報告致します。
東北道を一ノ関ICで降り、JRドラゴンレール沿いに国道を気仙沼へ出、陸前高田、さらに盛を経て大船渡三陸まで海沿いを走り、山中を遠野までショートカットして花巻紫波SAで一泊。
翌日は花巻での所要までの間、午前中早い時間に早池峰神社さまへ参拝したのち、花巻で親族と合流、用事を済ませてから一戸へ移動。
翌々日は、なんやかやと一戸での所要を済ませて、帰り道で御堂観音さまへお詣りして帰京しました。
本日掲載の一回目はあれから7年、気仙沼の復興なった「角屋店舗」さんのお姿と陸前高田の「奇跡の一本松」をご紹介します。
まずは気仙沼駅へ寄ってみました。
2018/06/01 JR大船渡線気仙沼駅

BRTが整備されたこともあり、駅舎はそのまま改装されて使用継続されているようですが、正面にファサードが新設されていました。屋根に直接描かれた屋根上アートもそのまま残っていましたが、少し見えずらくなっています。
2012/08/18撮影 〃

2012年の写真↑では改札脇のホームに列車が入っていますが、このホームと中線を挟んだ島ホームは駅舎側線路が舗装されてBRT用の道路となっていて、島ホーム山側に発着する列車からホーム越しに直接、BRTに乗り換えが出来るようになっています。
気仙沼駅というと下の写真のとんがり屋根がイメージ深く、昔ながらの鉄道の駅らしいたたずまいでしたから、現在の姿はちょっとねぇ。結局、写真1枚撮っただけで退散。港の方へと下ってみました。2012年に撮影した光景が6年経ってどう変わったか見たかったからです。
2018/06/01撮影 気仙沼魚町
骨組みだけの全半壊状態から再建なった角屋さん店舗

2012/08/18撮影 〃
津波で1/2階が全壊、3階だけが残った当時の男山本店さん

目指したのはこの男山本店さん↑、そして、前回うまく撮影出来なかった「港町ブルース」のモニュメントと大島連絡船をもう一度撮影したかったからです。
でも、それは叶いませんでした。この写真の交差点から港側は工事中で立ち入り禁止となっていたからです。一見したところ「港町ブルース」のモニュメントも撤去されてしまったようでした。
2012/08/18撮影 〃
津波で破損したままの当時の「港町ブルース」のモニュメント

仕方なく、街路一つ隔てた区画に写真の角屋さんが古いたたずまいを取り戻して再建されて居られましたので、撮影させて頂きました。後で調べましたら、どうも男山本店さんの、あの残った3階部分はそのままの姿で補強保存されているようです。元は味のある昭和のモダン建築でしたので、ひょっとして再建されていればなぁと思っていましたので残念です。
気仙沼の街は焼け野原となった埠頭に最新の超巨大な魚市場が完成間近であったり、街場では嵩上げ工事が粛々となされ続けていたりしておりまして、未だ復興半ばと言ったところです。
今回、車中から大島汽船フェリーが出ていくところを見かけて、フェリーターミナルのある港周辺は、もうすっかり再整備されて、昔の活気を取り戻しているものとばかり思い込んでいた小生には、2012年に訪れた時とさして変わらないように見えた港街路の工事風景に、ちょっと複雑な思いを抱いたのも事実です。
2012/08/18撮影 〃 当時のフェリーターミナル街区と汽船

関係者の方々には大変失礼な思いかも知れませんが、オリンピックなど来なければ、もっと早く昔の気仙沼を取り戻せていたかもしれないのに・・、と思ってしまうのは小生だけでしょうかねぇ。こんな思いを抱きつつ、何となくUターンして街場には戻れなくなってしまって、そのまま車を進めて気仙沼の街を出てしまいました。
45号浜街道を北上して30分弱で広田湾に面した陸前高田の街へ到着します。そして最初に目に入ってくる震災遺構がこの気仙中学校校舎です↓。もう何度も遠くに見える「奇跡の一本松」とのツーショットを撮影してきましたが、いつ見ても痛々しい校舎跡のその姿には胸に迫るものがあります。
2018/06/01撮影 震災遺構、元、気仙中学校校舎と奇跡の一本松モニュメント

今までずっと至近で「奇跡の一本松」を眺めたことが無かったので、今回は駐車場に車を駐めて眺めに行って参りました。
2018/06/01撮影
「奇跡の一本松」モニュメントと震災遺構、元、陸前高田ユースホステル

駐車場からはグルッと回り込んで結構な距離を歩いて行きます。通路は整備がなされてはいるものの、いかにも仮ごしらえ的で、更にウィークデーで、小雨交じりでしたので寂しい限り。もう少ししっかりと整備されれば良いのでしょうに、まるで、新興の埋め立て地のような景色でちょっと興ざめです。
2018/06/01撮影 「奇跡の一本松」モニュメントと復興工事に従事するダンプ

ここでちょっと勉強させて頂きました。実は小生、高田の松原の7万本の松の中で奇跡的に最期に残った一本なので「奇跡の一本松」なのだ、と思っていましたら、実は元々、この松は「一本松」と呼ばれていて、松原の中で一際目立つ松、なので「一本松」なのだそうです。それで、その一本松が「奇跡的に残った」ので「奇跡の一本松」と呼ばれるようになったのだそうです。
写真を見て頂くとわかると思いますが、復興工事のダンプと比較するとこの松が如何に背高のっぽのヒョロ松、だと言うことがよくわかると思います。
2018/06/01撮影 「ひょろ松さん」モザイク

やなせたかしさんが震災後、この「奇跡の一本松」をモチーフにして作曲したのが「陸前高田の松の木」、〈ぼくらは生きる 負けずに生きる 生きていくんだ オー オー オー〉と言う歌詞だそうで、それをイメージして作画されたのがこのモザイク画だそうです。
2018/06/01撮影 高田の松原7万本の松の木の証し、根っこ

「奇跡の一本松」の背景には完成間近の大防潮堤、さらに震災遺構のユースの建物ばかりが目に入るだけの、なんとも殺風景な景色ですがふと、フェンス越しに防潮堤内側の荒れ地を見ると、ここにかつて存在した7万本の高田の松原の痕跡が残っていました。
ちなみにこの「奇跡の一本松」に通じる橋、しおさい橋も見た目は綺麗なので、震災後に松へのアクセスのためにかけられた橋かと思いきや、実はこの橋も松と供に大津波に飲み込まれた震災遺構で、当時、そのすさまじい破壊を受けてひしゃげたままの欄干が残っています。
2018/06/01撮影 役目を終えた「希望の架け橋」遺物、橋脚

「奇跡の一本松」への通路に無機質なコンクリートの巨大な柱が立っています。復興事業の一環で高田市街地の嵩上げ工事を迅速に且つ効率的に進行させるため、市街後背地の山を切り崩し、その土砂を市街地へ搬送するためのみに設置された、3kmに及ぶ土砂運搬用ベルトコンベアシステムが気仙川をまたぐところに架けられていた、ちょっと見瀟洒だった吊り橋の橋脚だと思います。
2014/08/19撮影 土砂搬送システム「希望の架け橋」と「奇跡の一本松」

2015年に役目を終えて、システム自体は解体されて早3年。車両搬送で9年かかるところを2年半に短縮した功績は計り知れない物があったのだそうです。今は物言わぬ無機質なコンクリートの塊ですが、せめて、由来を記すとか、復興に関わった方々の名を記すとかして功績を称えてあげては、と思いました。
2018/06/01撮影 震災当時のまま、大津波でひしゃげたままの気仙川河川表示

発災以来7年も経つと、震災遺構として保存されている物を除き、当時の姿を残している物は本当に少なくなりつつあります。そんな物の中で、これ↑も震災遺構の一つではと見つけた物がこの河川表示です。保存されていると言うより放置されている、と言った方が正しいでしょう。
地元の方々にとって二度と目の当たりにしたくない、こういった大津波の遺物は早くなくなって欲しい、と思う方も大勢いらっしゃると思います。こういう物が無くなりつつある、と言うことはそれだけ復興が進んでいる事の裏返しかも知れません。
ですが、非当事者である小生でさえ、顔面蒼白、絶句してしまったあの光景が広がっていた場所を数年ぶりで訪ねてみましたら、あの凄惨な大津波の印象を伝えるインパクトが限りなく薄くなりつつある、と感じてしまいます。
下の写真をご覧になると伝わるかも知れませんが、広漠と広がる旧市街地には未だ人の営みが感じられません。この地で大勢の方々が命を落とされた、という事実があったことさえ、この景色からは伝わってこないのです。門外漢が何を言うか!、と叱られそうですが、そういう意味では気仙沼で陸に打ち上げられた大型漁船の様な、強烈なインパクトを与えるモニュメントがあれば、とも思います。
今の「奇跡の一本松」だけでは観光客が足を止めても、せいぜい、30分くらいです。門外漢の人々を畏怖させ、感じ入ってもらい、せめて半日でも高田に脚をとどめて勉強してもらって何かを学んで帰ってもらうには、今の状況では少しインパクトに欠けるように思います。
あれだけの犠牲を払わされた大津波です。多大な被害を受けた地元として、「大津波」を使えるだけこき使って、集客資源として活用し、街を潤させるくらいのことをしても、良いのではと思います。
2018/06/01撮影 気仙川左岸、旧陸前高田市街地
