鉄分少なめで申し訳ありません 空技廠野島の謎の4発機と横空富岡の4発飛行艇! | 湘南陽光電しゃ館 鉄道館

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ここのところ、国土地理院の空中写真サイトにはまりっぱなしで、ネタが鉄から離れていまして申し訳ありません。

2回に一回は鉄分ネタを入れようと思ってますが、なかなか、読者様方のツボにはまりそうな鉄物を見つけられませんで、今日は旧軍ネタとなりますが、ご勘弁のほど・・・。

まずは・・・。

 

1944/10/14陸軍撮影 野島

現在は埋め立てで大分当時と海岸線が変わってしまいましたが、現在の小柴から野島にかけての1944年当時の写真です。

右上の半島部には先日重機転落事故が発生した、米軍小柴貯油施設、旧海軍の小柴燃料廠が見えます。

写真には大型地下タンクが2基真っ黒い丸い穴を開けています。

米軍に接収されたあとは30基強の大小タンクが集中していた一大燃料貯蔵施設で、厚木/立川/福生の各航空基地や米軍施設への重要な燃料供給ポイントでした。

そして、左下に写っている四角い部分が海軍の追浜飛行場、海軍横須賀航空隊とともに海軍制式機の開発/制式化を一手に引き受けた空技廠のあった場所です。

この写真にも結構な数の単発機が写っていますが、一際大きな飛行機が1機。

拡大します↓。

どうも4発機のようです。

この時期の追浜に4発機となると、数が限られてきますよね。

時期的にはちょうどこの撮影日の9日後にあの「連山」大攻が初めて進空するのですが、残念ながら「連山」の初飛行は群馬県太田の中島飛行機工場付属滑走路で、後に追浜へ来ていますから違います。残るは97/2式大艇ですがこれらは後で出てきます、富岡飛行場ですでに運用中。

残るは陸軍機にも92式重爆なんていうロートル機がありますが、調布か福生あたりならいざ知らず、流石に海軍機のメッカ空技廠にはいないはず。

となると、厚木で前出の「深山」かもしれませんが、写真の写り具合からかもしれませんが、主翼に少し後退角ついているような気がします。

厚木の「深山」↑です。戦後1946/03/07米軍撮影の写真です。

主翼に後退角はついておらず、直線翼です。骨組みだけになった格納庫の前で、来襲した米軍機に執拗に銃撃されて穴だらけにされて放置されたままの姿です。

それでも主翼に日の丸が見て取れます。ちなみに左手の白い物は進駐した米軍にブルでスクラップにされた旧海軍機のなれの果てです。

エプロンに並んでいる双胴機はブロンコはまだ登場してませんので、米陸軍のメザシ、PコロことP-38でしょうか。

4発機「深山」と比較しても、双発のくせして言われているとおり、馬鹿デカイのがわかります。

となると、もう一機だけ、海軍施設にいてもおかしくない4発機がありました。ただし当時すでに解体されていなければです。

そう、「深山」の開発参考に1939年に海軍が当時のアメリカに体よくだまくらかされて、つかまされた、駄作機ダグラスDC-4Eです。

海軍領収後1942年に退役となっているようですから、ここ、追浜で放置されていてもおかしくはないと。

写真を見ると右翼が折れているようにも見えます。

周りの単発機も綺麗には置かれていますが、単葉/複葉あるようですし、何より潮風がもろに当たる海岸向きに置かれていますので、すでにお役御免の破損機や廃用機かもしれません。

米軍のようにブルで潰さないだけ、ヒコーキに対する愛着は感じられますが・・・。

というわけで、ひょっとしたらの「連山」ではないのが残念でした~。

で、ついでに富岡にあった横空の富岡飛行場ものぞいてみました。

 

1944/10/14陸軍撮影 富岡

今では埋め立てでこの飛行場は完全に内陸となっていますが、以前は海に面した飛行場でした。

ちなみに現在の京急富岡駅はこの飛行場の関係で戦争前後、休止/廃止と移転を何度も余儀なくされています。

神奈川県内の駅でも、極めて軍のとばっちりを大きく受けた駅です。

で、「飛行場」?なのに写真には滑走路がないじゃん!と言われるでしょうが、実はこの飛行場は戦前は日本の国際航空路に関連した由緒ある水上機専用の飛行場でして、格納庫と整備場は地上に設けられていますが、滑走路は海面なのです。

なので、飛行機は海を滑走して飛び立ちますので滑走路は不要なのです。ですからエブロン※駐機場のこと、前は斜めに斜路となって海面に接していて飛行機はこの斜路を利用して海面に出入りします。

この斜路の事をスベリ、と言ったりもします。

拡大します↓。

格納庫に比して機体が大きいことがわかりますよね。

斜めになって駐機しているのが多分、日本初の実用4発飛行艇、97

大艇※パラソル翼という特徴的な翼で細く長いのが特徴、で3機横を向いて留まっているのが、当時世界最高の技術水準を誇った川西飛行機※現新明和工業、床屋さんの椅子シェアナンバーワン、の2式大艇だと思われます。

当時の日本は4発機が離着陸できる長大な滑走路をもつ飛行場が少なく、前出の「連山」でさえ1機製作するのに単発機が10機作れるという、経済性※国力の貧乏症、の問題や高出力のエンジン開発の遅れ、日本という立地に伴う、戦術的な観点から見たときの戦略爆撃の重要性がどうしても低くなってしまうために、4発以上の多発大型陸上機の開発が後回しにされてしまっていました。

ただ、第一次世界大戦で内南洋島嶼部が委任統治領として日本に寄託されたために、水上機での長距離空路開拓の必要性が生じ、より遠くまで飛べる大型多発水上機の開発は軍の目論見もあって滞りなく進められました。

97式大艇も軍用と並行して民間旅客機タイプも就航していましたから、それらの技術蓄積があったために大型軍用水上機は比較的容易に開発が進んだことが幸いしたのですけれど。

いずれにしても、本格的な大攻「深山」開発のために大型機先進国であったアメリカから旅客機を買って参考にする、という発想自体は合理的かもしれませんが、その技術供給元※燃料の供給元も、に戦争を仕掛けて勝利できると考える発想自体が実に近視眼的でどうかと思いますでしょ。

エンジンはその後なんとか米英模倣品から抜け出せそうなところでお釈迦になってしまいましたが、当時飛行機の推進力を生み出す大元のプロペラの可変ピッチ※速度に応じてプロペラの軸角度を変化させて最適な動作効率を生み出す技術、に関してはすべて外国製で国産技術で生み出せず、あの天下の「零戦」でさえ、最後まで米国ハミルトン社からライセンスを受けた住友金属製で、しかも戦争相手なのにご丁寧に戦争中も版元にライセンス料を支払っていたとかいないとか言う「伝説」さえあります。

むしろ、噴流式エンジン※ジェットエンジン、の方がよほど独自性を持って開発されていたように思いますわ。

当時の技術に関わる者すべて、製品を形作る治具を造る工作機械さえ満足に国産の物がないという実情に触れていれば、内心では「米英」には勝てない、とわかっていたはずなのに、それを公では口に出せなかった、という事実をもう一度繰り返さないよう、二一世紀グローバリズムの中でも、70年前横行した「独りよがりの都合の良い解釈と近視眼的な思考」だけは持たないようにしたいものですね、ホント。