現在、岩手県北は三大ミートの生産地であり、特に岩手短角牛を始めとしたビーフ食、佐助豚他戦前から盛んだったポーク食、最近の九戸村と二戸一戸地域にまたがるチキン文化がつとに有名になっています。

多くは加工肉として生産地至近で処理され、都市圏・大都市圏へと出荷・流通されていますが、生産地と加工場が近接しているため、地元へ供給されるお肉商品は流通過程が省かれており、絞められ後、加工・商品となって店頭に並ぶまでのタイムラグがミニマムになっているため、非常に新鮮な商品が手に入りやすい環境にあります。

事実、先般来何度か投稿しているように、モツ関連のお肉製品は都会で流通している物とは「別格」と言って良いほどの商品が、ごく普通の地元スーパー店頭に並んでいることが、流通にかかるタイムロスがほとんど無いという事実を証明している、と小生は感じています。

実はジンギスカン料理も昔からのご馳走として、この地方でのおもてなし料理の代表としてどこの家庭でも提供されていたのですが、いつの間にか三大ミートにお株を取られてしまったようで、遠来からのお客様へのおもてなし料理としては、提供されることが少なくなったようです。

というより、羊肉自体の供給が以前のように地域でなされなくなり、ジンギスカンと言えば外国産の羊肉の利用が当たり前となった現在では、スーパーの店頭に並ぶお肉の価格を見てしまうと、どうしても三大ミートの方に手がいってしまうのは、今の経済状況においては当然の成り行きですよね、だって冷凍のワンブロックの羊肉って高いですもの。

で、何故この地方に三大ミートの生産がメジャーになる前から、お客様のおもてなし料理としてジンギスカンを始めとする羊肉文化が浸透していたのか、と考えると、元々この地方は南部藩政時代から馬産地として有名であり、明治期になって穀物栽培のしにくい寒冷地の開拓農家向けに酪農が奨励されたことから、牧畜業が広まりその後都市圏での需要が劇的に増えたことから身入りの良い養豚業が加わった後、近代養鶏システムが普及して三大ミートの生産地として成り立ってきたのは前述しました。

その中で、いち早く羊肉の食用に目を付けた人々がいました。

定説では日本初の畜羊は、千葉県三里塚にあった御料牧場※後の成田空港敷地、、が最初とされていますが、実はそれよりも早く福岡※北福岡=二戸、、の騰志家によって英国から輸入された綿羊を、はるばる横浜から徒歩数週間を経て福岡へ連れ帰り、最初、現在の呑香稲荷神社上の土地へと放ち、飼育を開始したという記録があります。

そして、明治八年の明治大帝東北行幸の折、一戸町の豪商金子邸へ宿泊された明治天皇へ献上されるも、その時は侍従によって断られて天皇陛下のお口には入らなかった、という逸話まで残っているのです。

その時の献上肉は、陛下のお付き料理番の方が料理道具を持ち合わせなかったので、と言う理由だったそうですが、時の「神君」陛下に献上するにまず、その献上元の地元有志が口にしてまずい物を献上しようとするはずが無く、推測ですが当時地元で調達出来る吟味された材料で羊肉の加工調理法を確立した上で、これは行けると ! 判断したからこそ、献上されたことは間違いないことと思われます。

ですから、当時の二大ミートは生業としての稼ぐためのあくまでも「商品」であり、この時以来、確立された羊肉食と馬肉食は庶民の口に入る比較的安価なタンパク源として受け入れられてきたからこそ、ジンギスカンとして羊肉料理が定着していたのではないのでしょうか。

ですが、現在でも畜羊こそこの地方ではなされなくなっていますが、食文化としては三大肉食文化にとってかわられてもなくなったわけでは無く、都会のスーパーでは見受けられないラム・マトンの輸入ブロック肉が極々普通のスーパーでも、当たり前のように売られているのは承知の通りです。

今や日本全国で三大ミートはご当地産品としてブランド化による過当競争で乱立状態。

でも、羊肉として一番シェアの高いのは当然のことながら北海道です。

でも、その大元を作って、明治大帝にまで献上できるようなレベルまで仕上げて、後の畜羊・羊食文化を見据えて先陣を切って動いたのが、二戸一戸の人達だった、という点は承知されるべきですし、敬承されるに値する偉業です。

二戸出身の日本の近代科学の父と言っても過言では無い、田中館愛橘博士の偉業の数々とともに、ジモティの誇れるアイデンティティともなり得る事象が、残念なことにあまり知られていないのも事実です。

三大ミートで潤ってるんだから、別に羊肉なんて今更歌わなくたって良いじゃん ! と行ってしまえばそれまでです。

ですが、ストーリーとしてすでに出来上がっている史実があるのなら、このSNS時代、何がバズるきっかけとなるかは分かりません !!

日本で最初に羊食を文化として始めたのは二戸一戸だ !! と言えるんですから、このストーリー、県北振興に使わない手はないと思うんですが、いかがでしょうかね ??

ちなみに、鉄瓶・漆器修復士さんから当時のレシピを推測して、明治大帝に献上されたであろう羊肉を再現した物を分けていただきました。

まずは試食と言うことで、今日のブランチに早速戴きましたので、投稿しておきます。

極々普通にスーパーで売っている、青森のメーカーの普通の味噌のみにマトンを漬け込み、ジップロックにいれて三日間冷蔵庫で寝かせたそうです。

ちなみにお肉は、今回は県境を越えた三沢産を使用とのこと。

一戸のマトン銘店お肉屋さんも考慮には入れていたけれど、生肉でテストしたかったと言うことで。

当時はフライパンなんかなかったでしょうから、炭火をイメージしてガス台のお魚レンジを利用して焼こうと思いました。

味噌は当時でも大切な主食材料で、貴重品でしょうから洗い落とさずにそのまま焼きます。

レンジをあらかじめ温めておいて、味噌が焦げ付くのを防いでおいて、強火にして表面を5分、ひっくり返してまた5分弱、計10分焼きます。

味噌に焼き色が付く程度でレンジから出すと、お肉も固くならずにしっかり火が通ります。

ブランチにしてはちょっと豪華なメニュウです。

もし、このまま食堂の「焼肉定食」として提供されても、羊肉=マトンとは多分分からないほどのクオリティの焼き肉です。

ホントに素直すぎるお味なので※あくまでも味噌焼きベースとして、、ちょっと味変を試してみました。

従兄弟の奥様に頂戴した、花わさびの水煮をトッピング。

これは、大当たりでした !! 水煮なので味噌肉の旨味には干渉せず、それでいて淡泊なお肉の味をキリッと引き締めて、更に隠れていたお肉の旨味を引き出してくれます。

+甘味はどうかと、キュウリの甘酢漬けをトッピング。

キュウリとの相性は良いとは言いがたいですが、味噌に甘味があるクルミ味噌や甘味噌への漬け込みは試す甲斐はあると感じました。

修復士さんによると、当時もその辺に生えている自生の紫蘇を薬味にしたり、これも里山に沢山自生している山わさび=ホースラディッシュ、を乗せたりして食べていたようだ、とのこと。

明治大帝への献上は結局叶いませんでしたが、当時天皇陛下に随行していた木戸孝允他、明治政府の重鎮から二戸の篤志家らは御下金を付与され、後に呑香稲荷神社から二戸市西部へと畜養場を移転して畜羊は続けられたそうですが、時代の波に飲み込まれて三大ミートへの転換とともに、畜羊の歴史は人々の脳裏から消えていきましたが、食文化として戦後持ち込まれたジンギスカンと結びついて、不足がちだった貴重なタンパク源としてこの地の人々の健康を支えたのは間違いのないことです。

三大ミートでの競争が他所の台頭で停滞気味であれば、しっかりとした史実に支えられたストーリーはもうあるのですから、日本最初の食羊の地、としてなにかイベント性を持たせられれば、先人達の先見の明が生きるワンツードアタウン、として立ち上げるのもよろしいのではないでしょうか。