追記: ↓↓、と前回書いたのですが、今日2024/05/13出現 ! した西岳信号場小鳥谷側引上げ線跡を目の当たりにして、ちょっと錯誤がある事が分かりました。

↑この陸橋部分は・・・。

この部分↑と思われるのですが・・・、

この跨道橋より北側もかなり長くレベル0=水平 ? の引上げ線路が残っていることから、国道の片側一車線化に転用されたのは、北側引上げ線の突端部1/3程度だけだったと言うこと。

南側の引上げ線は↑の写真の築堤先端部にあたる、ダブルクロスポイント↓のある部分、

だろう事から、新国道は北側引上げ線を全面転用して造成されたのでは無く、旧国道の敷地を全面的に潰して拡幅造成されたため、北側引上げ線の取付部分は全て残っているのでは、という推測が導き出されました。

これで貨物列車の背後に写っている、真新しいコンクリート法面の謎が解けました。

単線時代末期には西岳信号場脇の国道は一部を残して片側二車線での拡幅が完了していて、西岳信号場の北側引上げ線取付部にかかる、信号場本屋家屋部分と引上げ線突端部のみ、狭く全一車線通行をしていたのでしょうね。

※ここから前出加筆修正文です。

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奥中山(十三本木峠)越えのための西岳信号場他、三箇所の戦時急造信号場の概要については、前節で大方ご理解いただけたと思います。

さて現在、国交省東北地方整備局岩手河川国道事務所では交通安全事業として、一戸町管内で2箇所の国道4号線改良工事を行っています。

一つは馬淵川銚子ノ口あたりの岩館地区歩道整備工事。

もう一つが、中山地区付加車線整備工事です。

付加車線工事というのは、有り体に言えば登坂車線増設工事です。

主目的はおそらく、降雪時や厳冬期の路面凍結により、坂を登り切れない登坂不能車の発生によっての交通障害を未然に防ぐ目的で新たに増設される車線ですから、当然その道路斜度は現在よりもかなり緩く設計されて設置されるはずです。

では何故、現在片側一車線の国道道路に、上り線のみに登坂車線を付加しないといけないのか。

この写真↓を見てください。

1976年撮影ですから、ちょっと古い写真ですが鉄道の脇に国道4号線が走っている状況は、現在と変わりません。

で、1948年に米軍が撮影した同じ場所の写真↓を見ると・・・。

上の写真を4分割してみて、ちょうど左上のあたりが、1976年の写真に該当する部分でして・・・。

なんとなく、同じ線形のように見えますが、拡大↓しますと。

現在の国道4号線の道路が整備されたのは昭和40年頃、すなわち1965年頃になりますから、米軍撮影の1948年当時はまだ4号線は明治期に鉄道とワンセットで開設された当時と同じ場所を走ってました。

ですから、上の写真でも鉄道線路にまといつくように、右に行ったり左に行ったり。

今でも現役の生活道路として残っているところもあり、草に埋もれて自然に戻っているところもありで。

とても現在のように、車で走りやすいストレートな道路ではありませんでした。

で、更に上の写真を拡大すると・・・。

もうおわかりですよね ! 

奥中山越え戦時急造信号場の一つ、前節で解説した旧西岳信号所です。

上の写真中央に逆S字型に線路と道路が立体交差しているのが分かると思いますが、戦時中この信号場を設置するにあたり、奥中山に向けて上り勾配の途中に信号場を設けなければならないため、信号場で行き違いのために一旦停止した列車を安全※つまり後退させない、、に発車させるためには、どうしても水平面を長く持ったスイッチバック式の引き上げ線を信号場の南北に設置しなければならなかった。

ところがこの場所は小繋川が流れ、川が形造った狭隘な谷間であるため、元からある線路と国道(酷道 ?)で敷地はいっぱい、とても長大な列車を収容できるような引上げ線を本線の他に新たに設置する余地はない。

ここからは小生の想像ですが、こういう地形での戦地急造造成を訓練されていた帝国陸軍の一部隊、鉄道連隊の兵士達は、訓練されてたたき込まれた経験と知識を生かし、元は鉄道と国道がただ併走する敷地そのまま活用し、想定した信号場内と目されるポイントで鉄道の向こう側、つまり小繋川端に国道を移設して、元あった道路敷地に小鳥谷側のスイッチバック引上げ線を設置、奥中山側の引上げ線は小繋川を河川改修して土地を造成しつつ、稲荷林踏切あたりまで線路を引いて有効長を確保したのではと。

下り列車が本線の上り列車を待避して小鳥谷側の待避線へ入り、本線の列車をやり過ごした後、そこから奥中山側の待避線へと再度バックして進入、本線を小鳥谷に向けて発車する手順で行き違いを行う※逆も真。

このあたりは写真の下側方向、奥中山駅に向かって2パーセント(100m進むと2m高度が上がる。昔の表記だと20/1000‰パーミル)の勾配で線路が上っていますので、この二本の引上げ線を水平に保つためには、奥中山側に上っていく形で傾斜している本線との間に、傾斜している地面にあえて角度を付けて水平になるように、一見傾斜したように見える築堤を築いて、その上に線路を敷かなければなりません。

 

 

一守書店主さんが参画した「蒸気機関車Vol.16 奥中山D51の奮闘 東北本線「中山越え」と言う記事の中で、当時の西岳信号場の写真※ネット検索すると数葉、当時の西岳信号場の写真がヒットするのですが、著作権の関係で使用許諾申請中なのでやむを得ず雑誌から転載、この雑誌はコミセンの図書館に収蔵されてます、、が掲載されているのですが、ご覧の通り、小鳥谷側の引上げ線※左側の線路、貨物列車が停車中、、は本線とかなりの高低差で設置されているのがおわかりになると思います。

この貨物列車の先頭の方は、0レベルの水平線路ですから、引上げ線築堤と本線との高度差を見ると、いかに奥中山に向けての上り勾配がキツかったか、分かりますね !

本線を上ってきた上り旅客列車は猛然とダッシュしながら、西岳信号所で停車せず奥中山のサミット目指して走り去ります。

機関車は一戸 ? のD51164が前補機について、次位の多分C61がこの列車の本務機。

2両で列車を牽く形が重連牽引と言います。有名な三重連はこの機関車が3両連なって列車を牽引しますが、前2両おしり1両の補機がつく変則三重連や実は2+2の4重連もあったと聞きました。

10両編成の堂々たる旅客列車ですが、これが当時の各駅停車の普通列車だったりします。

旅客列車が通り過ぎてしまうと、やり過ごした貨物列車はバックして今度は南側の引上げ線に進入し、旅客列車が上ってきた本線を一戸へ向けて坂を下っていく、という寸法です。

西岳信号場が廃止された後、信号所は複線電化されてスイッチバックの必要の無い、スルーの線路になりましたから、南北の引上げ線跡は用途廃止の余剰地となります。

信号所が無くなれば、国道は元の通りの鉄道と並行したストレートに戻せば良い。

幸い、北側引上げ線用の築堤を築くために整地したスペースは、道路一車線分は優にとれる幅員と長さがすでにあり、スイッチバックの引上げ線跡なので、盛り土部分半分は水平で直線の土地。

と言うわけで、元の引上げ線の築堤は、土盛りそのままに全一車線であった国道二車線化用地の一部として、旧国道のルートに復したと言うことだろうと思われます。

え、そこで何で今回の「付加車線拡幅工事」がそれに関係あるのかって ??

勘の良い方はもうここらでお気づきだと思います。

前述したとおり、小鳥谷側の引上げ線は本線より遙かに高い築堤上に敷かれてましたよね ?

この場所まで国道は線路とほとんど同じレベルですから、この築堤に上るにはどうしても上り坂が必要になりませんか?

と言うわけで、小鳥谷側引上げ線跡築堤のエンドに近い一部を流用して、当時の国道拡幅用地として片側一車線化して開通させてしまったけれど、元の引上げ線突端部下までは国道と線路のレベルはほぼ一緒。

引上げ線用地を流用したがうえに、元々築堤上の線路の一番高いポイントまで道路を繋げざるを得ず、ためにここだけ不自然に坂のキツい取付き路を付け足さざるを得なくなってしまった。

結果厳冬期の路面凍結で登坂不能車が発生するようになっちゃったのでは  ?? と言うのが小生の推論です。

当時の国道拡幅を設計した技師さんも、今日のモータリゼーション全盛で大型車がバンバン走る ! までは予測できなかったというところでしょうか。

なお、雑誌の写真には、すでに当時の国道拡幅のための真新しい法面が写っていますので、信号場内を行きつ戻りつする戦時改造国道からは、信号所廃止を前提に元の国道に近いルートへと戻されているものと思われます。

信号場が廃止されて引上げ線も不要となって、初めて今の道幅の確保が全面的になされて、現在の二車線化が終了した、と言うところでしょうかね。

それであくまでも推測ですが、現在建設整備中の新登坂路は、やはり現在の上り線の腹付けになるようですが、出現した北側引上げ線跡を取り込んだ形で設置されるように見えます、小生の目にはそう見えました。

で、導き出された蛇足 ?? をもう一つ。

戦時急造時の西岳信号所設置時はやはり、平地だったところに築堤を築いて北側引上げ線を築造したことはほぼ間違いないのではと。

なぜなら、片側一車線化して新たに作った新道路は法面を崩して造成しているので、北側引上げ線よりさらに高度が高い。

法面を崩して引上げ線築堤を造成するなら、現国道側に築堤盛り土は必要ない。

新国道と同じく法面を片側だけ削り落とせば良いから。

だからやっぱり、当時の鉄連 ? さん方は知恵を絞って用地をひねくりだして、至極短期間のうちに、あんな立派な築堤を築きあげて、上の要求を完璧に満たす仕事をしたんだろうなぁ・・・、と感服してしまう小生なのです。

今も昔も、頭の中に蓄積された経験則と知恵は、デジタル時代になっても必要なんですよね !!

予告: 次回はいよいよ、一戸煉瓦物語の次章を書きます〜。