明治の日本鉄道東北線計画が現実の物となって、日鉄奥州線として青森まで全通し、一年後一ノ戸駅※最初はノの字が入ってました、、が開業した頃は、陸奥中山駅※=現奥中山高原駅、、と小鳥谷駅の間には駅は無く、いまの小繋駅も信号場※単線なので列車の行き違い場所として設置されるのが常ですが、小繋の場合は機関車の給水・給炭所と峠越えの急勾配対策としてスイッチバック線が設置されていました、、として設置されていました。

第一次世界大戦を経て、欧米列強諸国に互して第二次大戦に参戦した日本は、国内で産出されない戦略物資、すなわち石油資源の奪取と近代兵器生産のための鉱物資源の確保、のため着々と海外へ占領域を広げると共に、国内での戦争資源の増産調達と円滑で速やかな製品の輸送のため、国内の主たる物流機関であった「鉄道」の輸送力強化を図ります。

IGR線の前身、東北本線は北海道地区と東北各県の戦略資源※石炭・金属鉱石・人員・物資機械、、を帝都圏※東京圏、、へと急速輸送する大動脈として戦時最重要路線に指定され、その輸送力の向上と列車運用効率化を至上命題として、大改良が加えられることとなります。

当時の鉄道の動力機関と言えば、大都市圏を除いてはその全てが「蒸気機関車」に依存していた時代ですから、電気やディーゼルを動力とする現代の機関車出力に比べれば非力と言っても良いほどで、山坂の多い勾配区間は峠越えのために、機関車出力で引っ張り上げられる列車ごとの重量には大きな制約がありました。

ご存じの通り、一戸と岩手町の境にある「十三本木峠」は日鉄奥州線開通時から、鉄道難所として知られていた場所です。

しかも、奥中山越えのみならず、峠に取り付く前の尻内駅※現八戸駅、、から盛岡方の滝沢駅までの間も急勾配の連続で、当時の非力なタンク機関車牽引による安全な列車運行※坂の途中で何らかのアクシデントで止まってしまうと、そこから発車できなくなる、後ろに向けて坂をずり下がる、小説塩狩峠のようなことが起こるのを防ぐ、、のために、全駅※信号所含む、、に給水・給炭設備が設置されていたほどです。

後年、D51三重連運転で有名になったこの峠道ですが、戦争も終結して20年以上過ぎた昭和40年代でも電化されるまでは、世代の比較的新しい蒸気機関車※D51型蒸気機関車、を使用しても機関車を複数繋いで、明治期と同じく列車を引っ張り上げなければ、効率的な運転がままならないほどの急勾配線区なのでした。

ですから、満州事変を経て大戦に突入した当時の政府は、こうした急勾配を抱える全国の主要線区で大規模な線路改良※主として勾配角度の緩和、、を施す改良工事を行いました。

別ルート選択や既存線路余剰地に余裕がある線区では、本線とは別に新しいルートで線路を開通させた例も数多くあります。

ですが、東北本線の奥中山越え=十三本木峠越え、は明治の日鉄敷設ルートが距離・踏破時間・最急勾配とも最善のルート設定であり、花輪線荒谷新町駅から福岡※現二戸駅、、へ至る安比川沿いのルートも計画こそ帝国議会で審議承認される所まで行きましたが、戦局の悪化で結局実現には至りませんでした。

なので可及的速やかに、促成で線路の輸送力強化を図るには、既存線路を複線化するか列車行き違いの場所を増やして疑似複線化して、一つの駅間ごとの区間単位に存在する列車本数を増やすしかありません。

加えて、この区間は急勾配区間を抱えていますので、列車速度は当然遅くなりますから効率よく列車を運転するには、前出の行き違い場所の数を増やすとともに、勾配上にあるこれらの行き違い場所で相手の列車を待って停車している重い列車を、行き違ったらスムースにスタートさせるための工夫も必要になります。

こうして、奥中山駅と小鳥谷駅間15.4km※現IGR線換算、、に元から行き違い設備を持つ小繋駅を含めると三箇所、行き違い設備とスイッチバック引上げ線※上り勾配の付いたを線路から発車するのは不可能なので、列車が待機する線路は水平に保つように設計された待避線、、を兼ね備えた「信号場」が設置されました。

これが「西岳信号場」と「滝見信号場」です。

※※奥中山SL三重連で有名な大カーブは実は行政区は一戸町ではなく岩手町域になりますが、ここにも「吉谷地信号場」が設置されました。写真で見るとおり、奥中山駅南側に指呼の距離で設置されています。写真南側に見える引上げ線は廃止後4号線道路拡幅用地へ転用、奥中山側の引上げ線は複線化時に新下り線用地に転用されました。上り電車に乗って奥中山カーブにさしかかると線路が幅広くなっている場所がありますが、ここが吉谷地信号所の跡です。ちなみ十三本木峠サミット※峠の頂上のこと、ちなみに国道4号線の最高所、、は鉄道のそれと同じく奧中山駅北側至近の中山トンネルになります。

1948年米軍撮影USA-R1431-133 国土地理院空中写真データベースより

写真を1/4分割して左下の弓なり線が鉄道と国道、家がわだかまっている場所が小繋駅です。

明治日鉄時代にもすでに小繋には小繋信号所=小繋駅(M42年に早くも駅に昇格)にも当時の列車長に合わせたスイッチバック↑があり※1/4分割して左上線弧が線路、この線路に角度の浅いX字に幅広で交差している短い白い部分が明治のスイッチバック ? 。写真真ん中少し左上に現存の駅舎と駅前広場、右下にホームと南側の行き違い線が写っています、。右下のくねくね道は、当時は交通量が現代より遙かに多くて、古くからの集落間を結ぶ幹線道路として機能していた旧奥州街道です。

奥中山駅にも引上げ線を兼ねたスイッチバック※行き止まり側線として現存、左下中央トンネルに向かって真っ直ぐ伸びる本線右脇の線路、、があり、北側には待避線に貨物列車が停車する側線が数本あります。

実は最近発見したのですが、小鳥谷駅北側にも側線を兼ねた引上げ線跡を見つけましたので、たった15キロ強の間に5箇所もスイッチバックが存在した時期がありました。

ちなみにその距離感はと言うと・・・。

西岳信号場は奥中山駅から北に4.0km、3.7km走ると小繋駅、さらに3.1kmで滝見信号場、4.6km北に走ると小鳥谷駅に至ります。

ついでにもう一つの戦時急造信号場、西岳信号場から小繋駅を挟んで小鳥谷側の「滝見信号場」についても書いてきます。

1948年米軍撮影USA-R1431-134 国土地理院空中写真データベースより

この区間は、小繋川の浸食した狭い谷底に川筋に沿って線路が敷かれていますので、西岳信号場同様、滝見信号場も立地が狭くかなり無理をして設置されています。

信号場内は今も昔も小さな尾根筋に隠れて見えませんが、現在の4号線沿いバイオマス伐採木置き場の向かい側北の雑木林が生えている川端にありました。

ちなみに写真上部、国道4号線は当時は前面に立ちはだかる笹目子の主陵線部を避けて、山端ギリギリで鋭いカープを描いて小繋川に沿うように走り、滝見の小瀑脇を横目に見つつ鉄道の鉄橋下を抜けて小鳥谷へと繋がっていましたが、現在は笹目子のバイパストンネルが開通してますので、旧道カーブ元から真っ直ぐ旧奥州街道が尾根筋を通る笹目子主陵線へ向かっていきます。

余談になりますが、この旧国道が潜っていた鉄橋を第七小繋川橋梁と言うのですが、日鉄開通時には英国直輸入の「パテント・シャフト・アンドアクスルトリー社1888年」製の特異なトレッスル橋脚をもつ舶来鉄橋で希少性が高く、日本では丈高い四段橋脚を持つ橋はここと馬仙峡にかかる第九馬渕川橋梁と、現在は線路が付け替えられて廃線となっている目時旧線に架けられた旧第七馬渕川橋梁の3箇所しかありませんでした。

この橋台が現存しているのですが、この橋台積みに使用されているレンガが前出の奥中山・一戸で採土され地場焼成された「明治の一戸鉄道煉瓦」なのです。

滝見の信号場は写真↑に見えるとおり、北側すなわち小鳥谷駅側の引上げ線は、滝見の渓谷に阻まれて直線に線路を敷けないので、山の稜線に合わせて大きくカーブして有効長※運転される列車の制限長いっぱいブラスαの長さ、、を稼ぎ、南側の引上げ線も有効長が小尾根に阻まれてそのままでは確保できないので、突き出した尾根にトンネルを掘削し、引上げ線路を突き抜けるちょっと変わった設計で設置されています。

いかにも大戦中、軍命令第一の促成突貫工事といった風の設計で造られた急増信号場ですね。

突き抜けた先の引き上げ線路敷地を確保するためには、小繋川の流路を改修し玉石で石垣を積み人工台地を造成までして、敷地を確保した跡が今でも残っています。

この南側引上げ線トンネルは、信号場本屋のあった北側坑口は近年埋められて見えなくなっていますが、南側は昔のまま残っていて、晩秋から春先までは、木々の間に小ぶりなコンクリート製ポータルを望むことが出来ます。

これら戦時急造の奥中山峠越え関連の三信号場は西岳信号場が1943年、吉谷地信号場と滝見信号場が1944年竣工・運用開始ですから、太平洋戦争終戦でその用途としては1年弱で使命を終えるはずでした。

事実、現奥中山大カーブ中にあった吉谷地信号場は、奥中山駅至近であり行き違い機能を奥中山駅で賄えることから1949年に早くも廃止されており、撤去された資材は進駐軍命令で陸奥市川駅の拡張工事に転用されました。

ところが残りの二信号場は、国内全ての経済交通網崩壊と戦時疲弊の混乱の極みの中で、唯一の輸送手段としての鉄道輸送の急増により、列車本数の増発と長編成化を可能にするための信号場設置、という当初の目的を図らずも果たすこととなって息を吹き返し、50年代からの戦後復興と60年代以降の急激な高度経済成長時代の物流の根幹となって鉄道輸送を支えました。

しかし70年代以後の鉄道システムの目覚ましい技術革新とスピードアップには、日鉄開通以来の単線線路の容量では対処しきれず、全国各地で進められた幹線の複線化工事とともに計画された、動力車の無煙化※蒸気機関車から電気機関車・ディーゼル車化のこと、、によってこれらの戦時急増信号場は既存の有用性を完全に失うことから「新しい時代の国鉄」へと脱皮するきっかけとなる、1968年10月のヨン・サン・トォダイヤ白紙大改正を待たずに、線増用地への敷地供出をしつつ複線化工事が区間完成・使用開始した時点で使用中止され、西岳信号場は1965年、滝見信号場は1966年にそれぞれ姿を消していきました。

 

当時の蒸気機関車画像で線増区間や電化区間を走っている写真を多く見受けますが、これらは一戸機関区での実質的蒸気機関車運用が終了する1968年前後に撮影されたものが多く、1971年の東北本線全通80周年記念で、久方ぶりに運転されたSL三重連記念列車が、前年支区へと縮小されていた一戸機関区機関士さんらの手によって運転された最後の蒸気機関車運転となりました。

前段の前置きが長くなりましたので、二話に分けます。

本編は表題通り「入れ替わった道路と鉄道の位置関係が元通りに? 旧西岳信号場」について書きます。すぐに書きますので、少々お待ちを・・・。