今回より、新しい章立てで、現在に伝わる一戸鉄道煉瓦を紹介していきます。

まずは意外とジモティの方々でもご存じな、一戸小学校脇を流れる馬淵川右岸に残る、一戸駅巨大 ! 給水塔&旧一戸機関区給水用取水口とそれに繋がるお話です。

明治期、日本鉄道が一戸町内にルートを定めたとき、まだ今の駅は一戸町域では無く鳥海村域でした。

ご多分に漏れず、一戸宿場町では鉄道忌避状態がサポタージュを生むほど過激なほど盛り上がっており、当初日鉄が設定した宿場街路を縦貫するルートは、結果として現在のIGR線ルートに付け替えざるを得ませんでした。

ある意味、このルート変更が後の「鉄道の街一戸」を形作る大きな要因となったわけですから、偶然とは言え歴史はわからないものです。

駅を当時の一戸町域から鳥海村域へ追いやったのも、福岡(※北福岡=二戸)の駅が福岡の旧市街地から遠く離れた、石切所村に作られたのと同じ理由です。

当時の福岡もかなり鉄道忌避派だったと。なにせ一戸より極端な、川向こうへ追いやった訳ですから。

で一戸ですが、奥州線盛岡〜青森全通時※日鉄奥州線全通時、、には駅を設置されず、機関車の付け替え・補助機関車の運用基地としての設置が優先され、福岡駅(ホント言うと石切所駅 !?)に送れること1年、やっと駅が開業しています。

鉄道敷設時、一戸ジモティの鉄道サポタージュの実話を、実際に手を下した方のご子孫から伺った時は「え〜っ当時でもよくお縄にならなかったなぁ ! 」とビックリするほどの事をやられていまして、その内容としては、日鉄請負建設業者が3日かけて敷設して整備した路盤とレール・枕木を、一晩でよってたかって引っぺがしたそうです。

追記 : あ、閃いた !! だから懐柔策も兼ねて、最新鋭建材の一戸鉄道煉瓦を町の人達向けに民生用に放出したのか !

この他にも幾多のサポタージュ行為に辟易した日鉄側が、当初予定していた一戸駅の設置を見合わせ、乗降の出来ない機関区施設※区間開通時には小鳥谷駅に転車台(ターンテーブル)をすでに設置済みであったので、加えて無理に機関車関連施設を移転しなくても良かったはず、、だけに留めたのは、日鉄側の半分意趣返しとも思えるような感じもします。

なぜ、すでに駅が開設されて盛況を呈しはじめていた小鳥谷の機関車関連施設を、小鳥谷ジモティ曰く「一戸に転車台を盗られた ! 」と言わしめるほど、強引に日鉄側恨み骨髄の一戸へ移したのか。

小生の予想するに、まずは一義に「水の手」、水源と水量の確保の問題、もう一つはそうはいっても一戸の宿場街としてのポテンシャル=交通結節点、としての町の潜在的需要の大きさ、を秤にかけたのではないでしょうか。背に腹は代えられず、の要素も含めて。

事実、これも小生の検証ですが、日鉄奥州線岩手町〜福岡間は、鉄道敷設時に谷筋を縫うルート設定のため橋梁数も多いですし、できる限り限界まで真っ直ぐに鉄道路盤を築造するために、線路に沿って流れる小繋川の流路改修をかなりの場所でおこなっている跡が残っています。

鉄道と同じ時代の切石を野面積みした明治の擁壁が、直線に直された川筋に多く見受けられるのです。

特に小鳥谷駅の脇では線路に沿って流路が綺麗に整形されています。ただ、小鳥谷駅には谷筋から給水出来るような沢がありません。

これもあくまでも推測ですが、当時の蒸気機関車は自車にポンプを装備していて、給水塔※高い位置に大きな水桶を設置してここへ水を汲み上げ、自然流下で蒸気機関車へ給水する水槽、、がなくても水の手があれば、そのポンプで自車のタンクへ給水する能力が備わっていた ?? と言います。

当時の岩手町〜小鳥谷間では、信号所も含め駅全てに給炭台※蒸気機関車の燃料石炭を貯蔵・補給する台、、が設置されていますから、当然、給水施設もあったはず。水と石炭はワンセットですから。

この給水の問題は、この区間かなり深刻だったようで、奥中山・小繋では構内に沢筋が流れる場所を選んでいますし、一戸も実はかなりの水量の沢筋が構内を横断しています。

奥中山駅至近、平糠川第一橋梁。更に駅構内には谷地川が線路横断して流れていて同様の煉瓦積み橋梁があります。

一戸駅構内を流れる沢筋です。かなりの水量があるのが分かります。

小鳥谷にはこれがない ! 小さなタンク機関車であれば搭載炭庫※石炭を積むスペース、、も水タンクもたいした容量はありませんから、自車の搭載ポンプでさして時間をかけずに満タンに出来る。

けれど日鉄が将来、機関車が大型化してタンク機関車ではなく、テンダー※機関車の後ろに水槽と石炭庫を専用に備えた言わば専用貨車、、を持った急行用や勾配用の大型機関車になることを見越していたとすれば、その吸水量もタンク機関車の比ではないので、自車ポンプでいちいち水を吸い上げていたら、効率が悪くてしようがない。

こうして、機関車関連施設としての機能を満たす点で、より優位性を持つ一戸は、駅設置も含めて最初から注目していたはずなのに、当初、駅設置を外したのは、やはり日鉄の意趣返しかも知れません。

ただ、前出の一戸鉄道煉瓦製造工場と積み出し場が構内にあったため、駅施設を造成するスペースが物理的に確保出来なかったため、とも考えられますが・・・。

で、これも小生の推測なんですが、日鉄の一戸鉄道サポタージュへの恨みはよほど深かったようで、駅を開業はしたが、なんでそんなところに駅舎建てたの ? 何これ嫌がらせ ?? と言えるような場所に初代駅舎は建てられました。

そう、今は余剰地となっている元構内側線山側の山端の際、稲荷や諏訪野に上がっていく路地の脇です。

※機関区昇格後、単線時代の一戸構内図。推測では現上り線上に初代上りホームがあり、現下り線が当時の本線上り線線路 ? 現下り線から現在使用中の下り線待避線の一つ向こうの線路が当時の本線下り線と下り線ホームかと。図の構内側線は後になって拡張設置された貨物仕分け線。

※現在のIGR小鳥谷駅。この構内配線と駅舎の配置が初代一戸駅と酷似。なお現小鳥谷駅本屋は明治日鉄開通時の建物を改修使用中。

どう考えても、大口利用者となるであろう一戸宿場街の人達の利便性を考えれば、また旧奥州街道筋※現在の駅目の前を通過、、からの利用者を取り込むには現駅の場所が最適であるのに、わざわざ列車の行き交う駅構内を北・南端までぐるっと迂回させて、人家の少ない山の際奥に駅舎を建てたのか。

駅の設置に協力してくれた鳥海村へは、稲荷を抜けて現在の浄法寺線旧道を越えて行けば、迂回しなくても列車に乗れる向きであるので、鳥海村に恩義を感じていたのかも、と考えると一戸宿場街の人達への意趣返しともとれなくないのではと。

で、ここからやっと本題。そうは言っても当時は機関区規模の施設では無かったので、駅=機関車施設要員だとすると、施設は駅本屋至近に集合して設置されていた方が効率が良い。

と言うわけで、構内を流れる沢筋至近、初代駅舎の脇に初代の給水塔は建てられたようです。

どういう仕組みで、沢筋から水を塔の給水槽まで汲み上げたのかまでは分かりませんが、この程度の高低差なら「サイホンの原理」を使えば、当時の技術でもくみ上げは可能かと。

この沢筋から初代駅舎脇までは約60mくらいです。沢筋河道から側溝で初代駅舎脇まで引いてきたような痕跡もあります。

ですから、この沢筋、当時の鉄道運行の最重要施設 !! とも言えますから、ここでもしっかりと流路整備されていて、綺麗に成形されて平滑に加工された敷石で、川底も河道も完璧に改修されていることが、現在でも見て取れます。

 

ただ、この沢筋の敷石が本当に初代給水塔 ? の関連施設なのか「決め手」に欠けるのです。

今のところ、小生の手元には、初代給水塔 ? と思しき構築物の写真は一枚しかないからです。

初代一戸駅の写真。上りホームへは後に跨線橋で渡る方式になったようです。

左ホームが上り線、手前側が下り線です。

上の写真の拡大です。駅舎背後に初代給水塔 ? が写っています。

二代目駅舎時代の写真のように見えますが、資料写真出典元の本宮資料館キャプションでは初代駅とあります。それともし二代目駅であれば給水塔は駅舎手前側になるはずです。実証写真がありますので。以上のことから、この写真は初代一戸駅とみて、間違いないと。ちなみに写真奥で収束していく本線は現在の下り線路盤になるようです。

検証から導き出した状況証拠だけなのです。

なんとも、歯がゆい結果しか出せないのです。

一戸鉄道煉瓦物語2-② 旧一戸機関区給水塔吸水口へと続く。