※昨日、ツアー催行中の移動途中でFBに上げた記事を再構成して、一つに纏めました。

写真等も加えてあります。なお、道中移動の合間で記事を書きましたので、錯誤や訂正点は修正してありますので、FB記事とは多少の違いがあります事、ご了承くださいませ。

実は小生、本日、念願だった「三鉄震災学習列車」IGRツアー、に参加中です。

 

 

この「震災学習列車」の事を知り、いつか参加してみたいとずっと思い続けて10年経ってしまいましたが、今日体験してきます。

折しも、係累の眠る鵜住居で、14時46分の黙祷を捧げることになります。

十三回忌、静かに穏やかに偲べればと。

この「震災学習列車」ツアーに長く関わって居られる、銀河鉄道観光スタッフの方が添乗員として同行されて居られまして、いろいろと開催当時からのお話もお伺いすることが出来ました。

発災当初からのIGRと三鉄との強い結びつきと、相互扶助の関係の中から生まれたのがこの「震災学習列車」ツアーであったこと。

並々ならぬ被災地と三鉄への思い、復興しつつあると言われている諸都市のこれからと背反する危惧についても、お伺い致すことが出来ました。

人口減少に歯止めがかからず、岩手県内陸部の10%よりも更に厳しい20%増しの人口減少率の事などは、ちょっと衝撃的でしたし、沿線市町村の行政区域の存続がなければ三鉄の経営も続けられなくなるという、厳然たる事実も体感できました。

小生が末席を汚させていただいている、県北振興局主催の会合の中で、何故県北沿岸市町村のメンバーの方々の事業に対する取り組み方が、一歩も二歩も先に行っているのか、その理由の一端も分かったような気がします。

今回、県外からの参加者の方が半分以上を占め、海外からの参加者の方も居られました。

メディアでデータとして知る事も大事ですが、データと照らし合わせて現場で実体を体感することの理解度はまるで違います。

ですからこのツアー、IGR主催では次回は来年になるかとも思いますが、末永く続くことを願ってやみませんし、年度ごとに走行区間を変えての「学習」とのことですから、来年度も是非参加致したいと思いました。

2011/08月の宮古駅↓JR山田線のキハも三鉄のキハも構内で浸水被害に遭ったまま放置状態

 

「震災学習列車」はこの宮古駅がスタートです。

発災後、クウェート政府の援助によって購入が可能になった、36-700型気動車シリーズの一両です。

出発に際しては、三鉄社長さんと職員の方々の、想いと心のこもったお見送りも行われました。

発災当時に比べると、宮古駅改札口に掲げられた列車時刻表に記された、列車運転本数はいつの間にかJRと三鉄で逆転し、ほぼ一時間に一本の発着がある三鉄に比べ、JR山田線の運転本数は一日四本 ?!のみ。

三陸復興の要、肋骨道路の新規開通の影響もあるかとは思いますが、あの山田線の盛岡直通列車がたった四本しか運転されない事実に、愕然としてしまいました。

余談になりますが、帰路新規開通した高規格道を走るツアーバスは山田線沿いを走りました。

鉄的には実に「美味しい」ロケーションと撮影ポイントの連続で、ここにSLを走らせることが出来れば、釜石以上の人気を博することが出来るのではと、思ってしまいました。

車内で配布された「乗車証明書」です。

ちなみに今回の「震災学習列車」は、このツアー貸し切りの臨時運行列車として運転されました。

2011/08時の被災後の津軽石駅。

周辺道路上の瓦礫は撤去されていましたが、まだ周りは手つかずのお家も多く、駅も浸水時のまま閉鎖されていました。

ちなみにこの駅で偶然停車した列車は、間一髪乗務員さんの判断で津波からは乗客含め難を逃れることは出来ましたが、二両編成のキハは構内を流され脱線、のちに廃車となっています。

数年前、JRからの線区移管時に駅舎は整備リノベーションされ、昔ながらの好ましいスタイルへと生まれ変わりましたが、佇まいとホームは被災前と同じ姿です。※車内より撮影

14時20分頃、鵜住居駅に到着。

14時46分、ホーム上から黙祷を捧げました。

震災被災以降、山田線の移管を経て何度か訪れた駅ですが、やはり震災初年に訪れた時の景色は、頭の中にこびりついて、離れません。

車内で気丈にガイドしてくれた、三鉄の千代川さんが一瞬流された涙が、当事者たる方々にとっては目に見える形の上での復興は成されても、心や想いの上での復興はなされていないのだということを、物語っているように感じました。

ただ、彼女の話される言葉のなかで「此処はもう被災地ではない」と言う言葉も、深く力強く響いてきて、小生とても感銘をうけました。

真ん中の小柄な女性が、千代川さん。

彼女は小学生の時に実際に被災された体験を持たれているそうです。

ツアー員がいなくなった後、mitの取材を受けられておられましたので、昨日報道等でご覧になられた方もおられたはず。

↓2011/08当時のJR山田線鵜住居駅跡。

波で倒壊した駅屋や施設はすでにかたずけられた後でしたが、地下階段へ通じる壁だけは残っていました。

これが無ければ駅がここにあったことさえ、分からない状況でした。

当時GPSマップ無しには、ここへたどり着くことは不可能なくらい、鵜住居の町は何も無かったのです。

上の画を撮影した同じ場所あたりに立って撮影しました。

古い写真は釜石側を向いて、昨日の写真は大槌湾、すなわち津波のやって来た海方向を向いて撮影してます。

鵜住居駅での黙祷を捧げた後、バスで陸中山田の町まで45号浜街道を北上しました。

↓2011/8当時の陸中山田駅。

津波で破壊され、後に火災で焼失し残った瓦礫は全て撤去された後でしたが、駅前に広がる住宅地にはまだ、人々の生活の痕跡が残っていました。

陸中山田での震災学習は、ガイドさんと供にガイドさんが体感した当時の実体験そのままを、その実地でお話ししていただけるもの凄くリアルなお話でした。

津波が一瞬収まった時、浸水した街中を歩かれた時の事まで、話してくださいました。

で、そのガイドさんはなんと!ヤマダの醤油・びはんのスットッキー、で有名な、流通大手びはん社長さんの登場でした。

刹那的なお話しになるかな、この時期だし・・、と思いましたが、意に反して快活でユーモアも含めたお話しで、でも当時の山田の状況もはっきりと分かりまして、充実した時間を過ごせました。

なにせ「あそこをこう歩いて、自分の車はこう流れていって」とかの話ですから。

説明を受けた場所が、社長さんらが最初に避難されて、第二波の津波が襲ってくる様子を眺めていた高台そのものでしたが、そこに↓が保管されていようとは。


津波に破壊され火災で焼失した、旧JR山田線陸中山田駅舎正面にシンボルとして載っていた、地元ロータリークラブ寄贈の大時計です。

健在時に小生も眺めた記憶のある駅時計、瓦礫撤去時に無くなってしまったものとばかり思っていた大時計が、まさかここに保管されていたとは。

被災時計と言えば、今では解体撤去されてしまった旧大槌役場庁舎の「被災時計」が知られていますが、この陸中山田の町が発震後40分経ってから、醜悪な巨大津波が駅まで押し寄せた事を物語る、まさにリアルな生き証人たるこの大時計が、この場所にあることを知れた事は、小生にとってとても大きな収穫でした。

今後も幾度となく繰り返されていくだろう、自然巨大災害。

必ずと言って良いほど、犠牲が生じ大きな負の連鎖が長い時間生じますが、今度こそは今度こそ、人々の負った尊い犠牲と悲しみと苦しみを無駄にせず報いるためにも、是非とも教訓を生かしあらゆるリスク低減のため、今は当事者外として筆舌に尽くしがたい「つらさ」を感じていない者としての立場にある人々が、巨大なリアルな恐怖と畏怖を体感し、不幸にもその場面に遭遇してしまった時に行動出来るよう、意識改革をはかれるきっかけとなる、こうした「震災学習列車」などの場は、今後の災害大国日本にとって、絶対に必要不可欠である事を、今回のツアーを通して再認識させられました。

合掌。