まずは、この大震災で失われた全ての人々・事象・事物・意思そして想い、に12年目の哀悼の意を捧げます。

2011.03.10はまさか翌日にあんな災害が来るなど全く予期せず、二月前から予約していたオープン前のリニア館の内覧会ツアーに参加するために、名古屋におりました。

日帰りツアー添乗員なし、往復の新幹線のみ指定であとは自由行動、でしたから、同僚の同業者一名と一緒に勇んで名古屋に赴き、あおなみ線に乗り込んでJR東海リニア・鉄道館のエントランスから入場して、半日+かけて、隅から隅までじっくりと見学し、写真を撮りまくりお腹いっぱいでまた、名古屋から帰京しました。

そういう日程でしたから幸か不幸か、訪問先で東日本大震災の発災の大混乱には巻き込まれずには済みました。

ただ、翌日、この彼と15:46には川崎市街地の2国上にいて、周りの建築群全てが自分たちの乗った車にのしかかってくるほど、しなう姿を目の当たりにして、「当面、これで日本もしばらく終わりだなぁ・・」と思ったものです。

それから数時間かけて、普段なら小一時間で帰れる会社へ戻り、亀裂の入った会社建屋に恐る恐る足を踏み入れ、一月近く対応と処理に追いまくられた記憶があります。

一月ではまだ混乱は続いていましたが、少し気の張りも緩んで、この混乱と教訓を整理し直して記録に残しておかなければならない!と感じまして、空いた時間を利用して発生した事象をエクセルで纏めた記憶があります。

 

1981年、まだIGRが国鉄東北本線であった時代、滝沢あたりで撮影した写真があります。

ED75 1039号機です。

この形式の最終製造機、ラストナンバーとしてファンの中では、それまではある意味有名な機関車でした。

あの震災がなければ平々凡々に天寿を全うし、形式最終機ということで、どこかに保存されたかもしれない機生だったかもしれない彼の車歴簿には、あの日以来、特異な記録が書き加わったはずです。

当時、東日本大震災で被災した多くの鉄道事物の中で、運行中に津波に呑まれた、数少ない貨物列車を牽いていて被災した機関車であったからです

幸い、乗務員さんは関連社員さんと共に危機一髪。津波から退避されて難を逃れ、人的被害は発生しなかったのは幸いでした。

この1039号機も前日10日はいつもの仕業を着々とこなし、帰庫して一息ついたかどうかはわかりかねますが、いつもの通り、夜が明けてまた当日の仕業に付いていて、午後常磐線を快走中不幸にも大震災に遭遇し、緊急停車したその場所で大津波に呑まれ、一生を終えることとなってしまったのです。

 

この世に生まれたもの、生み出されたもの全て、自然の摂理の中で突然終焉を迎えてしまう・・。

神はサイコロを振らない、とも言われますが、日々生を全うしている全てのものにとって、それでは余りにも理不尽であること。

それが人であれば、よほど特殊な能力のあるものでなければ、予見できないのが常人の摂理でしょうから、人の操る機械であった彼、ED751039号機の運命もまた定められたものだったとは思いたくありません。

 

一つ、拙ブログに興味を持たれてご来館いただいた方々に、お知らせ致しておきたい事実があります。

過去発生した大地震、それも近代に首都圏で発生した関東大震災では大火災がクローズアップされがちですが、震源域の神奈川県内線区で多くの列車が走行中・停車中に転覆していることをご存知でしょうか。

東日本大震災では、首都圏及び中京・関西圏では震度の関係で運行中に事故を生じた列車は、幸い僅少でした。

ただ、先日NHKスペシャルで放映された、東海・東南海・南海トラフ震源域地震では描かれていませんでしたが、本割れ半割れ問わず、かなり大きな震度が運行中の鉄道に襲いかかる可能性があると思われます。

事後の大津波にも備えなければならない中で、事故に見舞われてしまっていたら、もし当事者として自分がその場に遭遇してしまっていたとしたら、どう行動したら良いか考えておくことも、東日本大震災犠牲者の方々への供養であると小生は考えます。

以前に拙ブログでまとめた記事がございますので、もしよろしければご一読いただければ幸いです。

発災から一週間後の記事で書いた事、再掲 「湘南の関東大震災。今身近な鉄道への爪痕、序章+①。」

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