時間という尺度がなければ、これほど、文明は進化しなかったかもしれません。
個人の人生を刻み、社会ととも生きる時間を刻む1分、1時間、24時間。
平等に与えられた、資産です。
目に見えない流れだけに、その有難さは、感じにくい。生まれてから
今日まで、一斉に「時間」というものを無限の存在から与えれた平等なる恩恵。
有限の存在の私たちは、どのようにも使うことができる唯一のものでしょう。
しかし、なぜもこうして、生き方に違いがでるのか、また事故にあったり、病気になったり、いろんな問題に悩まされてくるのか。
そこには、人特有にある欲求を満たしたいという執着が存在するからでしょうか。
それには、時間が有限であることを忘れ、無限に訪れる自分の可能性を過信しすぎ、己の力によってのみ、この社会を生き抜くしかないという思考の表れかもしれない。
時間は平等である。しかし限りがある。
そのことを忘れてやしないだろうか。
形あるものは必ず滅す。うつろいゆくもの。そこに執着するこに何の意味があるのか。
無くなるものに執着して何の意味があるのだろうか。
ただ、人として、自然界に存在するものとして、お互いがお互いを思いやり、幸せを願い、支える仕組みのみに有限の社会の存在価値、時間の価値はあるのかもしれない。
命は有限。その共有する時間(命)をいかに、この社会に活かすのか、少しでも長く時間を継続させていくのか。
人類の存在価値に語りかける果てしないわれわれの課題ではなかろうか。