やはり。この、手塚治虫とは違う

トレードマーク的ベレー帽姿は

まさに「街とその不確かな壁」の幽霊館長子易さんのイメージ。

外見だけかとも思ったが、横山先生の人生を知るに及ぶと

ますますこれかな。

 

されども

高知市の「横山隆一まんが館」を訪れたのは、

市川崑の映画「プーサン」(1953年)見たからだ。

 

この71年前のフィルムには、原作者泰三自身の、兄

横山隆一もちょいと顔を出す。

 

一緒に上映された同時代の朝日ニュースで映画の見方

もっと視点を変えてもいい気がした。

映画の芸術性とか普遍性とは対極にあるその時代の感覚が

気になったのだ。

今まで意識しなかったが、

そんな時代性の表現も作品の周辺として興味深く

伺えるようになったわけでもある。

 

つまり、

生まれる前の知らない時代の日本、昭和史。

「プーサン」はの映像作家、市川崑演出が成功とは言えないが、

やろうとする奇怪で過激な転換期の時代への風刺マインドは感じられる。

もう少し後にならこもっとブラックにできたはず。

 

この時代、アメリカ軍の占領が解けすぐ後の血のメーデー事件で新聞に載り

インチキな学校を首になる数学教師の伊藤雄之助の主人公は

四畳半ほどを渋谷に間借りする身分、

その家主は税理士の主人が家でも遅くまで仕事、

その娘は銀行勤めで日々帰りが遅い

その二人がビキニ環礁での核実験の映画館デート。

買い手市場の人あまりで、大勢が雇われたいと並ぶのは

日本橋のミシン会社の銃弾輸出は朝鮮戦争の始まる悪の景気なのだ。

 

察するに現実の方がシュールで過酷過ぎて映画の演出が追いつけてないのだ。

野呂さんをクビにする加東大介の土建屋ヤクザも

菅井一郎の元軍人の金持ちで投獄されても本にして売る図々しさも時代の産物。

 

その象徴として最も成功した例がゴジラだと考えると、

その後の受け入れ方と公開時とはかなり違いがあろう。

そういう日本人感の変遷が興味深いが、

これもこの同時代的エログロナンセンス。

更に残酷で今と同じだ。

 

 

日本漫画の黎明期

先人の北沢楽天に褒められ、近藤日出造たちと漫画集団を結成。

長生きだった横山隆一先生は、その初期から現在の入り口までの流れを

体験した特異な人物でもある。

 

しかも、「おんぶおばけ」の動画など手塚治虫とはまた別な路線で

漫画映画製作にも乗り出している。

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鎌倉自宅の一画に作られた自宅敷地のBAR、

というよりも居酒屋だったらしい。

まあ、文豪でも銀座の店とか行きつけがあろうが

外部に委ねずに己の道楽と表現でやってしまうのが素晴らしい。

文豪の多い鎌倉にあってここが寄り合いだったようだ。

 

著作「鎌倉通信」には

小津安二郎が来ていたことも書かれている。

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本当ならば、鎌倉の敷地全部を

ここに移動せさせてそのまま展示館にしちゃうのが

一番良かったんだろうな。

まあ、無理だろうけども。

でも

なんか漫画的でそれが良かったな。

 

 

仙厓とか、禅画の坊主が描きそうでもあり、

モダンでもあり、とにかくこういう漫画から離れての解放感のある

絵が実に素晴らしゅうございます。

 

 

 

最晩年に、なんとまあ、こんな大きな絵を描いている。

そういえば、明日は横山隆一の誕生日ではないか…

残念ながら、この記念館を見ることなく逝ったが、

結構やりたいことをやった人生がすごい。

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横顔の円、鼻の円、抽象図形に収めた「フクちゃん」。

画面構成が実に見事。

ポップアートのロイ・リキテンスタインみたいに美術作品だ。

 

戦前掲載を得た「江戸ッ子健ちゃん」の脇役が人気になり独立。

その時の大学帽が、そのままキャラになったとか。

エプロンを掛けて下駄を履く小学生前の小僧なのだ。

 

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