今日の講壇(抜粋)
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説教「霊の戦い」より

聖書「『あの男は気が変になっている』と言われていたからである」(マルコ福音書3:21

 

■あえて自らを低くされるイエス

 イエスは人の世で考えられる限り最低の評価を受けたのです。イエス御自身は不当な評価をあえて受けられました。すべての人がいのちの尊厳を回復するために、主は自らを最も低くされたのです。ここまでに書かれていることは、イエスが多くの人を救ったということです。愛すること、病をいやすこと、罪びとや、汚れているとみなされていた人たちの友となること、これらはイエスが神の掟に忠実であることの証しです。しかし神の掟に忠実であればあるほど、社会からはみ出してしまうのです。イエスは誰よりも「人間らしく」生きました。イエスこそ唯一の「真の人」であるということができるでしょう。逆に言うと、本当の「人間らしさ」を生きられない社会であったのが、イエスの時代のユダヤ社会であり、今の日本社会です。しかし私たちはイエスのあとに従いましょう。蒔かれた種は決してむだにならず、芽を出す日が来るのです。

 律法学者たちは、社会の秩序を乱すことは、悪霊のしわざに違いないと言うのですが、そのことで、自分たちが悪霊を恐れ、その働きに従っていることをさらけ出してしまっています。しかしこの世界を本当に支配しておられるのは、造り主なる神です。この信仰についてイエスは揺らぐことがありません。神の支配を信じて行動することができるのです。律法学者の中傷に対してイエスは反論します。

そして特に27節のたとえには、人間を罪から救うイエスの働きが暗示されています。イエスによって強い人(サタン)は縛りあげられ、その家財道具(サタンに捕らわれている人たち)は所有者(サタン)から解放されるのです。まさしくこれはイザヤ書(53:12)に預言されたように、イエスが何のために来られたかということ、そして十字架の贖いによってそれを成し遂げることを暗示しているのです。

 

説教「行方定めぬ波枕」より月下星志牧師

聖書「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ福音書1:15

 

 イエスのいわゆる公生涯は、ガリラヤから始まります。そして、十字架につけられ、復活した後に弟子たちに出会うのもガリラヤでありました。「ガリラヤ」と言う場所にイエスの生き方が現れているのだと思います。かつて2つの王国が存在したパレスチナ地方。北側のイスラエル王国は、アッシリアと言う国に征服されて以来、多くの外国勢力にいつも支配されており、その度に、住民の移住や、他の民族の入植があるなど、人種的にも宗教的にも文化的にも入り混じっている状態になり、南側のユダヤ人からは「異邦人のガリラヤ」と虐げられていました。そんなガリラヤでイエスは活動をはじめたのでありました。

 多くの国々に代わる代わる支配され、ひとつに戻っても虐げられてきたガリラヤ。ガリラヤという地名は、ヘブライ語の「ガーリール」のギリシャ語「ガリライア」に由来すると言われています。その意味は「周辺」と言う意味です。都であり中心であったエルサレムではなく、周辺、地方、とりわけ端に位置するガリラヤに福音=良い知らせは訪れたのでした。ガリラヤは入り混じるがゆえに差別と偏見に苦しみました。しかし、入り混じるがゆえに、違いがあるがゆえに、本当の豊かさがあることをイエスの伝道の初めに私たちは学ぶことができるのではないでしょうか。私たちの社会もまた入り混じる、違いによって与えられる豊かさを大切にしてまいりましょう。

 

 

説教『赦しといやし』より

聖書 マルコによる福音書2:112

讃美歌 244(54年版)

「行けどもゆけども ただ砂原、 道なきところをひとり辿る。 ささやく如くに み声きこゆ、 「疲れしわが友、我にきたれ」」

 

 

 アニメ『ラブライブ!サンシャイン!!』の歌のなかで(正確にはそのメンバーによるユニット『AZALEA』の曲ですが)、特にお気に入りの『GALAXY HidE and SeeK』(銀河のかくれんぼ)という曲があるのですが、こういう歌詞があります。

「もしかして本当のわたしは 地球じゃないところで生まれたかも さみしかったずっと こころ通じあう人はどこでしょう? ああ迷路ではひとり」「ココだよって誰かの声が聞こえる 優しいその声で導いてください それだけでわたしはこの星のことが とってもスキになれるみたい」

 自分は地球人ではないかもしれない、という突飛な言葉の背後には、ここには居場所がない、という孤独の悲しみがあります。この歌には優しさを表す言葉しか使われていませんが、その背後には、今まで人間関係でさんざん傷ついて来た痛みが隠されているのです。

 「それだけでこの星のことが好きになれる」というのはとてもスケールの大きな愛ですが、裏返せば今の状態は、世界に対する嫌悪の状態ということです。一歩間違えれば憎しみにとらわれ、大きな過ちを犯してしまいそうな危うさをはらんでいる、そういう所に若者は共感をおぼえるのでしょう。

 それでも、たった一人でも自分を受け入れてくれる人がいれば、それだけでわたしはこの世界のことを赦すだろう、と言うのです。

 

 「自分はもともとどこから来たのか、」というテーマや、人間世界の罪の問題と、それに対する赦しというテーマは、聖書に由来し、現代のSFのなかに保存されて来たと思います。

 クリスチャンの人生は、罪のせいでたびたび見えなくなりそうな神さまを目指して追いかける、「かくれんぼ」のようなものかもしれません。

 

 「自分はもともとどこから来たのか、」という問いに聖書は一つの答えを持っています。それは神さまの元から来た、ということです。神のことは人生の途中で聞いた、だから縁もゆかりもないという人もいるかもしれません。しかし初めて出会ったとしても、実はもともとそこにつながっていたと聖書では考えます。人間は神から出たが、一時この「命の源」から離れてしまい、罪と死にむしばまれていた。しかし、救われて神の元に戻り、神との関係を回復させる。これが聖書が示す救いのイメージです。善い羊飼いのたとえや、放蕩息子のたとえ(共にルカ福音書15章)の中に見ることができます。神は造り主であり、命の源である、ということが聖書の大前提です。

 イエスの奇跡的ないやしは、この造り主との関係を回復させるということを示しています。

 

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