今日の講壇(抜粋) -2ページ目

クリスマスメッセージ「隣人となられた神」より

聖書「すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。」(ルカ福音書2:9

 

■自由に生きていますか

 御言葉に従うとは、常識や慣習から解放されて、本当に神が喜ばれることのために生きることです。真理はわたしたちを自由にします。世間の基準から外れようと、人間はもっと素晴らしいものだと知ることになります。

 聖書に書かれているのは、人間が救いを体験した瞬間の情景です。夜通し羊の群れの番をしていた羊飼いたちの所に、突然まぶしい光が射し込みました。神が人のところにやって来られるとは、心の中が光で照らされるような経験です。神の使い、天使が天からやって来る、それは、人間と神との間が遠く離れていることを示しています。人間にとって、神さまはあまりにも遠くにいます。神の力、神の正しさには人間は遠く及びません。あまりにもかけ離れているので、人は神を恐れるのです。近づくことができないのです。

 しかし、そのような人間の元へ、神は幼子の姿で来られました。人間に守ってもらわねば生きられない、ものすごく弱い存在として来られました。それがイエス様です。これが救いの始まりです。幼子は、人間と関わり、わたしたちの隣人となってくださり、生きる力を与えてくださいます。わたしたちに、まだ自分にも何かできるんじゃないかと思わせます。心を激しくゆさぶって、もっと生きろ、生きられるだけ生きてくれ、と迫って来るのです。

 キリストは私たちに新しい人間の姿を与えてくださいます。罪から救われ、解放された人、それは、完全無欠な存在でしょうか。それは、掟に忠実な正しさではありません。自分の弱さを受け入れ、自分の過ちを認められる、そういう生き方です。失敗を恐れて何もできなくするのではない、神の恵みは、生きる気力に満たされて、生き生きと活かす力なのです。

 

説教「叫びに答える神」より

聖書「彼らは厳しい重労働のため意欲を失って、モーセの言うことを聞こうとはしなかった。」(出エジプト6:9

 

■救いはすぐそこにある

 イスラエルの民は、神が与える自由と権利よりも、ファラオの下で搾取されるほうを選びました。彼らは、権力に嫌われないように御機嫌取りをすれば、とりあえず現状維持で問題ないと思い込んでいます。実際は、自分を守って主張しなければ、ますます、いいように搾取されるだけです。命の尊厳を守れない権力者を信じてはならないのです。だれが正しいのかわからない時でも、神の立場は揺るぎません。神は命を第一に愛する方です。掟や習慣はその次です。人が生きられなくされている状況があるなら、その社会のほうを変えられるのです。

 人間の苦しみの声に、神は速やかに答えられます。遅すぎることはありません。しかし人間は待ちきれずに、希望を失ってしまうのです。救いの言葉を聞かなくなってしまうのです(6:9)。人が苦しみのゆえに生きる気力を失っても、神は何がその人に必要なのかを忘れずにいてくださいます。

 神の救いのわざは具体的であり、人が生きるためになされるのです。神は奴隷を解放し、彼らの神となり、彼らを神の民として受け入れました。同じように、神が私達を罪から贖ったとき、私たちを救い出し、受け入れ、私たちの神となってくださったのです。だから、わたしたちが救いを信じて神の招きに応えるとき、神は私たちを新しい人生へと導いてくださるのです。

 人が救いの意味を悟るのは、すべてが実現した後です。今は未来のことが見えません。苦難のなかでは不安にとらわれ、絶望してしまうのです。モーセやイスラエルの思うように事が進まなかったのは、どんな時も神を信頼する心が養われるためでした。どんな時でもくじけずに生きていくために、必要な試練でした。私達にとっての最善を知っておられ、与えてくださる主を信じましょう。

 

 

 

説教「未知への期待」より

聖書「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」(創世記15:6

 

■信じきれない弱さ

 アブラムは、神の報いに期待することができませんでした。アブラムにとって自分に子どもがないことは大きな苦しみでした。神は「あなたから生まれる者が跡を継ぐ」と告げました。アブラムは高齢で既に子どもをあきらめていました。普通の人なら、不可能なことをわかっているがゆえに、アブラムを励まそうとしても躊躇するでしょう。しかし神は大胆に、報いの大きさを示します。5「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」神の祝福は、私たちの想像をはるかに超えているのです。

 死んだような気持ちで生きていたアブラムの心に、希望の火が灯りました。「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」信じるということは、人格と人格との間に生まれる行為です。何か証拠を見て本当だと認めるようなことではありません。神との関係においては、まず信じるということが大事なのです。神さまが何とかしてくださるという気持ちが、アブラムに生きる力を与えるのです。

 神はいつもアブラムと共にあり、彼は多くの祝福を受けました。それでも、時には神の御心を疑ってしまうのです。神が約束してくださった子孫とは、土地はいつ与えられるのか。思うように実現しないので、待ちきれなくなってしまう。それが人間の弱さです。しかし神は人格をもった他者なのです。神のご計画は、人間の計画をはるかに超えた良いものであるのです。神の人格に信頼して待つのです。待っている間に、神さまに語りかける、それが祈りです。祈って待つのです。祈ることで、神さまが聞いておられることを確認するのです。アブラムは神の約束を信じきれず、保証を求めました。神はアブラムの要求に応えました。それは人間の弱さに配慮したからなのです。