親の愛とエゴの分かれ目 | みのやん徒然日記

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オンラインカウンセリング八起きチーフセラピスト、統合ガイド、公認心理師みのやんのゆるゆる語り

子どもを笑顔にしたい。子どもの喜ぶ顔が見たい。子どもに幸せになってほしい。

これら全部親心ですよねえ。

 

こどもの好きな料理を作りたい。

こどもを遊園地に連れて行ったあげたい。

子どもの将来に役立つように習い事をさせてあげたい。

子どもが一生食べることに苦労しないようにしてあげたい。

これらも親心ですよねえ。

 

子どもが将来困らないように学歴を付けてあげたい。

子どもが将来お金に困らないようにいいところに就職させたい。

子どもが不幸にならないような友達とつきあってほしい。

子どもが不幸にならないような伴侶と巡り会ってほしい。

これらも全て親心からでていますよねえ。

さて、ここで違和感が出始めるのは、親自身の不安がそこに入り込んでいないか、です。

不安はそもそもエゴのささやきから生じる。

また、親自身のエゴであるメンツ、プライドが入り込んでいることも違和感につながります。

さらには、親自身の幸せを子どもに作ってもらおうという他人軸としての状況依存が入り込んでいないか、が最も違和感に通じるといえます。

 

これら違和感が生じるときは、親自身が自分の不足感を埋めるために子どもを利用しているわけですねえ。

不足感での行動に気づくチャンスは、子どものためにしてあげようとした行動を子どもが拒否したときです。

その時、自分がどのように感じるかを点検していくと、すぐにわかります。

もし、ムカつく!なんやねん、せっかくやったってんのに!親心を踏みにじりやがって!誰のおかげでそうやって暮らせるとおもとんや!といったようなことを考えたり怒り感じたり.

あるいは、ええ、そんなあ・・・

せっかくやってあげてるのにいらないのぅ・・・、はあ・・・、と残念がったりかなしがったりしているとき、まさに親自身のエゴが介在していた証拠です。

これらは不足感からの行動であることを自覚でき、子どもに依存していることが自覚できるチャンスです。

この反対に、自分が満たされているときに、同じように子どもに何かしてあげて、それがこひしたふわよを感じているときは、子どもが拒否ったとしても、あらそうなの、いらなかった?ほなまた必要なときは言うてね、でおわり。

子どもの行動に一喜一憂することなく、自分の行動だけで満足。

 

つまり、相手の反応に一喜一憂することなく、自分のこひしたふわよだけで行動できるわけです。

そんなときに親心をそのまま体験して喜べるわけですねえ。

 

子どもを喜ばそう、ということがすぐにエゴに通じるわけではなく、親自身のこひしたふわよで行動すればいいだけのこと。

そこには押し付けやおせっかいとは異なる、親心の愛があるだけなのですねえ。

 

このところ、こんなことを考えつつ暮らしているのでした。ちゃんちゃん。